平家の栄華から幕府の拠点へ。古都を監視した『六波羅探題』の興亡#1175
かつて平家一門の邸宅が建ち並び、栄華を極めた「六波羅」。平家滅亡後、この地は源頼朝の宿館を経て、鎌倉幕府が朝廷を監視する権力の中枢「六波羅探題」へと変貌を遂げます。
- 第1問:建久元年(1190年)に源頼朝が上洛した際、平頼盛の邸宅跡に築いた宿泊施設の名称は何でしょうか?
- 第2問:鎌倉幕府が「六波羅探題」を設置する直接のきっかけとなった、1221年に起こった政変は何でしょうか?
- 第3問:六波羅探題の初代を務め、のちに鎌倉幕府の第3代執権となった人物は誰でしょうか?
- 第4問:六波羅探題は「北方」と「南方」に分かれていましたが、かつての「平家六波羅邸」の跡地に位置していたのはどちらでしょうか?
- 第5問:元弘3年(1333年)、足利尊氏の攻撃によって六波羅探題が滅亡する様子が詳しく描写されている軍記物語は何でしょうか?
☆回答は記事の最後にあります。
承久の変から幕府の終焉まで、激動の時代を支えた武士たちの拠点・六波羅の変遷を、歴史の足跡とともに辿ります。
平家の拠点から源頼朝の宿館へ
かつて、鴨川の東岸「六波羅」の地には、平清盛をはじめとする平家一門の広大な邸宅が建ち並んでいました。しかし、平家が都を去り、壇ノ浦で滅亡すると、その跡地は宿敵・源頼朝によって接収されることとなります。
建久元年(1190年)、念願の上洛を果たした頼朝は、平頼盛(清盛の弟でありながら源氏に接近した人物)の邸宅跡に、自身の宿泊所となる**「六波羅新御亭(しんおんてい)」**を築きました。
頼朝は二度目の上洛時にもここを利用しましたが、建仁3年(1203年)に火災で焼失。その後、頼朝の御亭が再建されることはありませんでした。
承久の変と「六波羅探題」の誕生
六波羅が再び歴史の表舞台に大きく登場するのは、承久3年(1221年)の承久の変です。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒すべく兵を挙げましたが、結果は幕府軍の圧倒的な勝利。京都へ攻め上った幕府の大軍は、わずか2日間で上皇方の軍勢を打ち破りました。
戦後処理のために京へ留まった北条泰時と北条時房は、かつての六波羅館を指令所として接収。ここに朝廷の監視と西国の統治を目的とした強力な出先機関、**「六波羅探題」**を設置したのです。
北方・南方の二大拠点とその境界
六波羅探題は、その名の通り北と南の二つの政庁に分かれて機能していました。
- 六波羅北方(北殿) 現在の松原通(当時の五条)から五条通(当時の六条坊門)あたり。もともとの「新御亭」があった場所で、主に執権の血筋を引く有力者が務めました。
- 六波羅南方(南殿) 五条通(六条坊門)から正面通(当時の六条)あたり。平家の本拠地だった六波羅邸の跡地にあたります。
この地は、京の東の入り口として軍事的な要衝であると同時に、鎌倉武士たちが京の文化や政治に目を光らせる、まさに「権力の最前線」でした。
太平記に描かれた終焉
約100年以上にわたり京の治安と朝廷を牽制し続けた六波羅探題も、鎌倉幕府の滅亡とともに最期を迎えます。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の呼びかけに応じた足利尊氏が京都へ進軍。激しい攻防の末、六波羅探題は焼き払われました。軍記物語『太平記』には、その猛火と武士たちの最期が克明に描写されています。
現在、六波羅蜜寺やその周辺には「六波羅探題跡」の碑がひっそりと立ち、かつての武士たちの野望と興亡の歴史を今に伝えています。
執筆メモ:京都検定のポイント
- 六波羅探題の初代:北条泰時・時房
- 設置のきっかけ:承久の変(1221年)
- 場所:平氏の六波羅邸跡地を利用
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- 第1問の答え:六波羅新御亭(ろくはらしんおんてい)
- 第2問の答え:承久の変
- 第3問の答え:北条泰時(ほうじょう やすとき)
- 第4問の答え:南方(南殿)
- 第5問の答え:太平記