【京都と能の物語】観阿弥・世阿弥から京観世へとつながる魂の系譜#1110
京都の文化に深く根付く「能楽」。その礎を築いた天才・観阿弥とその息子・世阿弥の足跡から、江戸時代の京都で能の伝統を繋ぎ、現代の「京観世」のルーツを形作った服部宗巴まで。時代を超えて京都の人々に愛されてきた能楽の歴史と、知られざる立役者たちのエピソードを分かりやすく解説します。
- 観阿弥の実名は何といいますか。
- 観阿弥の息子で、法号を「世阿弥」と名乗った人物の諱(本名)は何ですか。
- 徳川家康の寵愛を受け、家元として江戸へ移った七代観世は誰ですか。
- 福王茂兵衛盛親が、隠居後に名乗った号は何ですか。
- 服部宗巴から素謡を教授された人々が祖となった、京都で観世流を守り伝えた家々を総称して何と呼びますか。
☆回答は記事の最後にあります。
京都の街を歩くと、ふとした瞬間に能の舞台となった場所や、歴史の足跡に出会うことがあります。今回は、能楽の礎を築いた観阿弥と、江戸時代の京都に能の種をまいた服部宗巴にスポットを当てて、その歴史を紐解いてみましょう。
能を大成させた天才・観阿弥とその出自
能楽(猿楽)を芸術の域まで高めた人物といえば、まず名が挙がるのが観阿弥です。
- 出自の謎: 彼の生まれについては諸説ありますが、**伊賀(現在の三重県)**の地で活動していたという説が有力です。
- 名前の由来: 実名は清次(きよつぐ)。後に「観阿弥陀仏」という法号(出家した際の名)を名乗りました。「観阿」や「観阿弥」は、その略称にあたります。
- 次世代への継承: 観阿弥の息子こそが、後に『風姿花伝』を著した天才・**世阿弥(元清)**です。父の築いた礎を、息子がさらに美しく磨き上げ、現代まで続く「能」の形を完成させました。
京都の能楽を守った功労者・服部宗巴
観阿弥・世阿弥から時が経ち、戦国から江戸へと移り変わる時代。京都の能楽文化を支えた重要な人物がいます。それが**服部宗巴(はっとり そうは)**です。
観世家と深い縁を持つ「福王家」の養子
宗巴はもともと、能の主要な役どころである「ワキ方」を担う福王茂兵衛盛親という名でした。「宗巴」という名は、隠居した後に名乗った号です。 彼は九代観世黒雪(かんぜ こくせつ)の甥にあたり、後に福王家の養嗣子(ようしし)となりました。
家康の江戸移住と、京都に残された「観世屋敷」
歴史の大きな転換点となったのは、七代観世元忠が徳川家康の厚い寵愛を受け、家康と共に江戸へと去ったことでした。家元の拠点が江戸へ移るなか、宗巴は京都に残り、二条烏丸付近にあった観世の京屋敷を守ることになります。
現代に続く「京観世五軒家」のルーツ
服部宗巴は、家元不在の京都において、町衆や門弟たちに**素謡(すうたい)**を熱心に教授しました。この活動が、後に京都の能楽文化を支える大きな柱となります。
- 五軒家の誕生: 宗巴から教えを受けた面々は、後に**「京観世五軒家(きょうかんぜごけんけ)」**と呼ばれる家々の祖となりました。
- 京都の誇り: 岩井家・久保田家・林家・井上家・分林家というこれら五つの家系は、江戸に拠点が移った後も、京都という土地で観世流の伝統を絶やさず守り抜いたのです。
おわりに
観阿弥が種をまき、世阿弥が花を咲かせ、そして服部宗巴が京都という土壌でその根を守り続けた。 今私たちが京都で能を楽しめるのは、こうした人々が時代を繋いできたおかげかもしれません。次に京都を歩くときは、かつての「観世屋敷」があった場所を想像しながら、彼らの足跡を感じてみませんか。

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- 清次(きよつぐ)
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- 観世元忠(かんぜ もとただ)
- 宗巴(そうは)
- 京観世五軒家(きょうかんぜごけんけ)


