🍵 優美な伝統をたどる:京都を彩った「茶人」たちの物語#1105
京都の歴史を深く彩ってきた茶の湯。この記事では、利休の時代から江戸初期にかけて活躍し、優美な伝統や独自の茶風を築き上げた京都ゆかりの茶人たちをご紹介します。彼らの残した物語と名席から、京の茶の精神をたどります。
この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
- 千利休のすすめで天正7年(1579年)に京都へ移住し、利休から茶室「雲脚」を贈られた茶人は誰ですか。
- 飛騨高山の城主の息子であり、優雅で華麗な茶風から「姫宗和」と称された茶人は誰ですか。
- 千利休の切腹後、会津の蒲生氏郷のもとに身を寄せていたが、後に許されて千家を再興し、子の宗旦に家督を譲ったのは誰ですか。
- 薮内剣仲紹智が、義兄弟であった古田織部の死後に受け継いだ茶室で、現在も薮内家を代表する名席として残っている茶室の名称は何ですか。
- 千家三世にあたり、その時代に表千家、裏千家、武者小路千家という三千家に分かれる基礎を築いたのは誰ですか。
☆回答は記事の最後にあります。
京都の歴史と文化は、茶の湯と切り離せません。ここでは、侘び寂びの精神から華麗な美意識まで、茶の湯の発展に大きな足跡を残した京都ゆかりの茶人たちをご紹介します。彼らが残した茶室や、受け継がれる茶風に思いを馳せてみませんか。
目次
🍵 秀吉・利休時代の重鎮:薮内 剣仲 紹智(やぶのうち けんちゅう じょうち)
織田信長の家臣、藪弾正の次男として生まれながら、茶の湯の世界で独自の地位を築いた人物です。
- 武野紹鷗(たけの じょうおう)に師事: 天文年間(1532~55年)に茶の湯を学び、武野紹鷗の教えを受けました。
- 利休との深いつながり: 紹鷗の没後、千利休のすすめで天正7年(1579年)に京都へ移住し、利休と親しく交流しました。利休からは自作の茶室**「雲脚」**を贈られるなど、その信頼の深さがうかがえます。
- 古田織部の茶室を継承: 大名茶人として知られる古田織部とは義兄弟の関係にあり、織部の死後は、その茶室などを受け継ぎました。
- 現存する名席「燕庵(えんなん)」: この織部から受け継いだ茶室が、現在も薮内家を代表する茶室である**「燕庵」**として残されています。
🍵 利休の血筋と千家再興の立役者:千 少庵(せんの しょうあん)
千利休の娘と結婚し、利休亡き後の千家を継ぐことになった人物です。
- 千家を継ぐ: 利休の娘婿となり、茶の湯の大宗匠である利休の家を継承しました。
- 逆境からの帰京と再興: 利休が豊臣秀吉の命により切腹した後、少庵もしばらくは会津の蒲生氏郷(がもう うじさと)のもとに身を寄せていました。しかし、後に秀吉に許されて京都に帰り、途絶えかけた千家を見事に再興させました。
- 宗旦への継承と隠退: 比較的早く子の宗旦に千家を譲り、自身は隠退しました。これにより千家の安定した存続の礎を築きました。
🍵 華麗で優美な茶風:金森 宗和(かなもり そうわ)
武士の身分を捨て、京都に隠棲した後に、独自の優美な茶風を確立した茶人です。
- 飛騨の城主の息子: 天正12年(1584年)に飛騨高山の城主の息子として生まれますが、武士を辞めて京都で隠居生活を送りました。
- 宮廷文化の支持を得る: 茶の湯を深く学び、後水尾上皇や、文化人として名高い**近衛信尋(このえ のぶひろ)**など、宮廷や公家社会から厚い支持を得ました。
- 「姫宗和」と呼ばれる優美な茶風: その茶風は、それまでの侘び茶とは一線を画す優雅で華麗なものとして知られ、**「姫宗和」**と称されました。宗和の茶は、京の公家文化に大きな影響を与えました。
🍵 利休の「血」を引く千家三世:千 宗旦(せんの そうたん)
利休から始まる千家の歴史の中で、その伝統と精神を確立した重要な人物です。
- 千家三世を継ぐ: 利休の孫にあたる宗旦は、千家三世として家を継ぎました。
- 父は少庵: 宗旦の父は、千利休の後妻となった宗恩(そうおん)の連れ子であった少庵です。この少庵から、宗旦へ利休の茶の精神が受け継がれていきました。
- 三千家の祖: 宗旦の時代に、千家は表千家、裏千家、武者小路千家という**「三千家」**に分かれる基礎が築かれました。宗旦は、利休の茶を現代に伝える上で欠かせない存在です。
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前述の練習問題の解答☆
- 薮内剣仲紹智(やぶのうちけんちゅうじょうち)
- 金森宗和(かなもりそうわ)
- 千少庵(せんのしょうあん)
- 燕庵(えんなん)
- 千宗旦(せんのそうたん)