2024年、家族のかたちが変わる年に。父の決断と新たな一歩#841 mission037
2024年の年明けは、僕たち家族にとってまさに激動のスタートでした。
年末年始には、東京に住む家族4人で久しぶりに京都へ帰省しました。コロナ禍以降、家族全員での帰省は本当に久しぶりです。
ただ、これまでと違ったのは、父から「弱ってきた祖父母の姿を子どもたちにはあまり見せたくない」との希望があったこと。そこで、今回は僕だけが実家に泊まり、妻と子どもたちはホテルに宿泊するという形に落ち着きました。

12月31日、元旦、そして1月2日。挨拶がてら実家に顔を出したのは、それぞれ30分から1時間程度でした。けれど、これが結果的に、うちの両親と東京の家族が京都の実家で一緒に過ごした最後の時間になりました。
帰省の前日、「明日帰るからね」と父に電話したときのことです。
その電話口で、父から突然こんな言葉が出ました。
「もうお母さんの面倒を見るのがしんどい。マンションか施設、見つけてくれ。俺も一緒に入るから」
これまでずっと母の介護を頑張ってきた父が、初めて自分から口にした言葉に、僕は驚くと同時に、「ようやくこのタイミングが来た」とほっとした気持ちもありました。
年末の慌ただしい時期、しかもおそらく仕事納めの後でしたが、すぐに以前お世話になったシニア住宅紹介の方にメールを送りました。年明け早々にも、前に見学したサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)の空き部屋を押さえたいと伝えました。
忙しい中でも丁寧な返信をいただき、2024年の最初の大仕事が決まりました。
年始に東京へ戻り、妻の実家での挨拶の場でも、「まず3月までに両親の引っ越しを目指す」と話しました。
そんな年明けの1月1日。京都で能登半島地震の揺れを体感しました。
子どもたちと訪れた京都水族館で、たしかに横揺れを感じました。その後も関西では地震のニュースが続き、避難所での食糧不足の様子を伝える報道もありました。
一方、実家の冷蔵庫には、母が次々と買ってきた生鮮食品や冷凍食品があふれ、ゴミの日にはまだ食べられるものをどんどん捨てていました。そんな状況と、テレビで流れる被災地の様子とが重なり、胸が痛み、涙が出ることもありました。
「もうすぐ、この不毛な状況から抜け出せるのかもしれない」
そう思う反面、「まだまだ乗り越えるべき壁がたくさんあるだろうな」という不安も入り混じっていました。
年明け早々、父と母を連れて、目をつけていたサ高住を再度見学しました。
まだ将来的な話だと考えている母は、「あぁ、ゆくゆくはこういうところに入るんやなぁ。きれいなマンションやね」と、どこか他人事のように話していました。
そんな母の隣で、僕はすでに空いている2階の2部屋を仮押さえし、2月の引っ越しに向けて必要な手続きを、担当の方と一つずつ確認していました。

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