【京都歴史散歩】本陣・脇本陣ってどこ?江戸時代の「宿」にまつわる意外な物語#1130
「本陣」と「脇本陣」——歴史ドラマで耳にするこの言葉、実は幕末の京都では少し意外な形で運用されていました。文久2年、空前の「ホテル不足」に陥った京都で、大名や侍たちはどこに泊まったのか?お寺や民家が果たした役割から、当時の街の熱気を紐解きます。京都検定の備忘録としても役立つ、江戸時代の宿泊事情エピソード。
問1:江戸時代、大名や門跡などのVIPが宿泊する最高級の宿舎を何と呼ぶでしょう?
問2:本陣が満室の際や、大名の家来たちが宿泊するために使われた予備的な宿泊施設を何と呼ぶでしょう?
問3:幕末の政治情勢の変化により、全国から多くの方々が入京・宿泊するきっかけとなったのは、西暦何年(または元号何年)からでしょう?
問4:京都では他国の宿場町とは異なり、大名の本陣として主にどのような施設が借りて利用されましたか?
問5:幕末、大名の家来たちが「脇本陣」の実質的な代わりとして宿泊に利用したのはどのような場所でしたか?
☆回答は記事の最後にあります。
江戸時代の京都は、天皇の住まいである御所があり、政治の重要拠点でした。しかし、意外なことに京都には他国のような「城下町」としての宿舎整備が特殊な形で進んでいたことをご存知でしょうか?
今回は、検定試験でも重要なキーワードとなる**「脇本陣」**を切り口に、当時の京都の様子を覗いてみましょう。
1. そもそも「本陣」と「脇本陣」とは?
江戸時代、参勤交代などで移動する大名や公家、幕府役人が宿泊する最高級の宿を**「本陣」**と呼びます。
- 本陣: 大名や門跡(もんぜき)など、VIP専用の宿泊施設。
- 脇本陣: 本陣が一杯の時や、大名の家来(家臣)たちが宿泊するサブの宿泊施設。
通常、宿場町(草津や大津など)では特定の有力者の家が指定されていましたが、京都の場合は少し事情が異なりました。
2. 幕末、京都が「宿不足」に陥った理由
江戸時代を通じて京都に滞在する大名は限定的でしたが、幕末の**文久2年(1862年)**を境に状況が一変します。
島津久光の入京などをきっかけに、日本中の大名たちが次々と京都へ集結するようになったのです。いわば、京都全体が急に「空前のホテル不足」に陥ったような状態でした。
3. お寺がホテルに?京都ならではの宿泊スタイル
急増する宿泊客を収容するため、京都ではユニークな対応が取られました。
- 本陣として使われた「寺社」 京都には立派な寺院が数多くあったため、大名たちはそれらを「本陣」や旅館として借り上げました。現在も「〇〇藩本陣跡」という石碑がお寺の前に立っているのをよく見かけます。
- 民家が「脇本陣」に早変わり 殿様がお寺に泊まる一方、大勢の家来たちは周辺の**民家(町家)**を借りて宿泊しました。これが京都における実質的な「脇本陣」の役割を果たしたのです。
4. 街全体が「藩の拠点」へ
この時期、特定のエリアに特定の藩の家来たちが固まって泊まることで、街全体が各藩の駐屯地のような熱気を帯びていきました。
私たちが今歩いている京都の何気ない路地も、当時は「薩摩の侍」や「長州の侍」が脇本陣から出入りし、日本の夜明けを議論していた場所かもしれません。
おわりに:歴史の跡を探して
京都検定の勉強をしていると、「文久2年」という数字や「脇本陣」という言葉がただの用語に見えるかもしれません。しかし、当時の「宿が足りなくてお寺や民家をフル活用していた」というドタバタ感を想像すると、歴史がぐっと身近に感じられますね。
次に京都を歩くときは、ぜひ足元の石碑に注目して「ここは誰の宿だったんだろう?」と思いを馳せてみてください。

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問1:本陣
問2:脇本陣
問3:1862年(文久2年)
問4:寺社(寺院や神社)
問5:民家(町家)
