🌸 ねねの道:豊臣秀吉の妻・北政所ゆかりの路を歩く – 格式高い東山の散策路#1046

京都・東山に佇む「ねねの道」は、天下人・豊臣秀吉の正妻である北政所(ねね)ゆかりの美しい石畳の散策路です。この記事では、秀吉との愛を貫き、波乱の時代を生き抜いたねねの生涯を紐解きながら、東山随一の景観を誇る道の歴史と魅力を深掘りします。

この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
  1. 豊臣秀吉の正妻である「ねね」が、秀吉の死後、仏門に入った後の名前(号)は何ですか。
  2. 「ねねの道」の名称の由来となった人物が、関白の正室として呼ばれた称号は何ですか。
  3. ねねが秀吉の菩提を弔うために東山に創建し、晩年を過ごした寺院の名称は何ですか。
  4. 「ねねの道」が整備され、電線の地中化と石畳の敷設が行われた結果、京都らしい景観が整い、「ねねの道」として名付けられたのは西暦何年ですか。
  5. 「ねねの道」は、京都市東山において、どの公園の南側から始まる散策路ですか。

☆回答は記事の最後にあります。

ねねの道とは?

「ねねの道」は、京都市東山にある円山公園の南側から、高台寺の西側を通り、東大谷廟参道から霊山観音の参道に至る石畳の美しい散策路です。

電線の地中化と石畳の敷設により、京都らしい趣のある景観が整備されており、平成10年(1998年)に「ねねの道」と名付けられました。

「ねね」とはどんな人物?

ねねの道の名前の由来である「ねね」は、戦国時代の天下人、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の正妻です。

  • 本名・別称: 寧子(ねいし)。後世では「おね」とも呼ばれます。
  • 出自: 尾張の杉原定利(すぎはらさだとし)の娘。
  • 結婚: 浅野長勝(あさのながかつ)の養女となり、永禄4年(1561年)に木下藤吉郎(後の秀吉)と結婚。この時、藤吉郎は25歳、ねねは14歳でした。

北政所(きたのまんどころ)としての地位

秀吉が関白(かんぱく)に昇りつめると、ねねは**従三位(じゅさんみ)**に叙され、**北政所(きたのまんどころ)**と呼ばれるようになります。

📝 北政所とは? もとは摂政・関白の正室を指す名称ですが、秀吉の妻「ねね」の別称として広く知られています。

秀吉亡き後のねねと高台寺

秀吉の死後、ねねは髪を剃って仏門に入り、**高台院(こうだいいん)**となります(落飾・らくしょく)。

当初は京都の三本木(さんぼんぎ)に隠棲していましたが、後継者である秀頼(ひでより)の生母・淀殿(よどどの)との対立もあり、豊臣家を離れます。

徳川家康の助力を得て、東山に寺院を創建し移り住みます。これが、現在「ねねの道」のすぐ西側にある高台寺です。

この地には、もともとねね(高台院)が生母の菩提を弔うために建てた「康徳寺(こうとくじ)」がありました。ねねは亡くなるまでこの地で秀吉の菩提を弔い続けました。

散策のヒント:ねねの道の魅力

「ねねの道」を歩くと、格式高い石畳と周囲の風情ある町並みから、戦国の世を生き抜いた女性の歴史と、東山の静謐な空気が感じられます。ねねが晩年を過ごした高台寺へ向かう道として、歴史を偲びながら静かに散策を楽しむのがおすすめです。


ねねの道への興味は深まりましたか?この周辺には、高台寺のほかにも二年坂三年坂など、京都らしい見どころがたくさんありますよ。

あわせて読みたい記事

おすすめの書籍

今回のブログ記事前後の関連記事

この記事を書いた人
本サイト運営者

ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳を運営しています。
京都市出身、現在は東京都江東区に住まい、妻と一緒に小学生&保育園の二人の子育て中。両親の介護で京都との二拠点生活です。
「野菜作りを楽しむ」をコンセプトにした家庭菜園や農体験の運営を仕事として10年やってきました。今は独立して様々な情報発信などのお仕事と、不動産の管理などをしています。

前述の練習問題の解答☆
  1. 高台院
  2. 北政所(きたのまんどころ)
  3. 高台寺
  4. 平成10年(1998年)
  5. 円山公園(まるやまこうえん)

Posted by ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳