【京都検定備忘録】京都の近代化を牽引した先覚者・明石博高と「粟田口療病院」#1157
京都の近代化において、山本覚馬や槇村正直と並び称される重要人物、明石博高。四条堀川の医家から、いかにして日本初の公立病院「粟田口療病院」設立や府営産業の育成を成し遂げたのか。京都検定受検生が必ず押さえておきたい、彼の足跡と功績をコンパクトにまとめました。
- 幕末、明石博高が京都の医師仲間を糾合して組織した、医学・薬学の情報交換機関を何というか。
- 明石博高が伝習生や助手を務め、オランダ人教授ハラタマから化学などを学んだ、大阪や京都に設置された機関を何というか。
- 明治4年に明石博高が各界から寄付を募って設立を申請し、翌年開設された日本初の公立病院を何というか。
- 日本初の公立病院は、御池通木屋町の臨時施設を経て、粟田口にある何という寺院の境内に移されたか。
- 明石博高とともに京都の近代化を推進した人物で、博高を全面的に支援した当時の京都府参事(後の知事)は誰か。
☆回答は記事の最後にあります。
京都が幕末の動乱から立ち直り、近代都市へと脱皮する過程で、欠かすことのできない人物がいます。それが、京都府の産業近代化の先鞭をつけた**明石博高(あかし ひろあきら)**です。
1. 生い立ち:四条堀川の医家から学問の世界へ
明石博高は、京都の四条堀川にある医業・薬種商を営む家に生まれました。 幼少期から、医学だけでなく科学や技術全般にわたる百科全書派的(博学)な学問を修め、その知識が後の京都復興に大きく貢献することとなります。
2. 幕末の活動:医師のネットワーク「煉真舎」の結成
幕末、博高は京都の医師仲間を糾合し、**「煉真舎(れんしんしゃ)」**という組織を立ち上げました。 これは単なる親睦会ではなく、最新の医学や薬学の情報交換を行う、現代でいう研究機関・情報拠点としての役割を担っていました。

3. 京都の舎密局(せいみきょく)と人脈の広がり
明治に入ると、博高は大阪の舎密局(せいみきょく)にて、オランダ人教授ハラタマから化学や物理を学び、伝習生や助手を務めます。
- 山本覚馬との繋がり: 京都府顧問の山本覚馬らとの人脈を通じて、京都にも「京都舎密局」が設置されると、そこへ転勤。京都の勧業(産業振興)の中心人物となっていきました。
4. 京都府営産業の基礎固めと「槙村正直」の信頼
京都府参事(後の知事)である槇村正直の厚い信頼を得た博高は、次々と近代産業の基盤を築いていきます。
- 主な功績:
- 梅津製紙場(日本初の洋紙製造)
- 鴨東牧場・養蚕場(畜産・絹産業の育成)
- 伏見製作所(機械工業の振興) これら府営事業の基本を固め、京都の経済・産業の近代化を力強く推し進めました。
5. 日本初の公立病院「粟田口療病院」の設立
博高の最大の功績の一つが、医療環境の整備です。
- 設立の経緯: 明治4年(1871年)、在京の各界事業者から寄付を募り、病院設立の許可を得ます。
- 紆余曲折の開院: 当初は粟田口の青蓮院境内に建設予定でしたが、工事が間に合わなかったため、明治5年に御池通木屋町付近の臨時施設で先行して開設されました。
- 粟田口療病院の誕生: その後、青蓮院内に移転。これが日本初の公立病院である**「粟田口療病院」**です(現在の京都府立医科大学の源流)。
- 関連施設: 療病院の管轄下には、天然痘の予防を行う種痘館(しゅとうかん)や、医学教育に不可欠な粟田口解剖場も設置されました。
【まとめ:京都検定チェックポイント】
- 明石博高 = 京都の産業・医学の近代化の父。
- 煉真舎 = 幕末の医学・薬学情報交換機関。
- 粟田口療病院 = 日本初の公立病院(青蓮院内に設置)。
- 重要人物との関わり = 山本覚馬、槇村正直、ハラタマ。
作成メモ: この内容は、京都の「近代化」や「教育・医療」の項目で頻出です。特に「粟田口療病院」が「青蓮院」に置かれたという点は、場所を問う問題で狙われやすいのでセットで覚えましょう!

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