鎌倉の風に吹かれて。親鸞聖人が歩いた京都「魂の旅路」を辿る#1143
京都の街を歩くと目にする大きな「本願寺」。その宗祖である親鸞聖人の生涯は、実は京都の地と深く結びついています。山城国での誕生から、比叡山での苦悩、師・法然との出会い、そして90歳で生涯を閉じるまで。親鸞聖人が歩いた「魂の足跡」を、ゆかりの地とともに辿ります。
- 親鸞が9歳で得度してから20年間、修行に励んだ場所はどこか。
- 親鸞の師であり、吉水の地で念仏の教えを説いた浄土宗の開祖は誰か。
- 親鸞が90歳で亡くなった場所とされる、下京区にあった建物は何と呼ばれているか。
- 親鸞の遺骨を鳥辺山で火葬した後、荼毘(だび)に付されたとされる今熊野の寺院はどこか。
- 親鸞の娘・覚信尼が建立し、のちの本願寺の起源となった、聖人の遺骨を安置するための建物は何というか。
☆回答は記事の最後にあります。
京都の街を歩くと、あちこちで「浄土真宗」の大きな寺院に出会います。その宗祖である親鸞聖人。実は、京都に生まれ、京都で修行し、波乱の人生の末に京都でその生涯を閉じました。
今回は、親鸞聖人と京都の深い結びつきを、その足跡とともに紐解いてみましょう。
1. 聖人の原点:山城の国に生まれ、比叡山で葛藤した青年期
親鸞聖人は、現在の京都市伏見区日野にあたる山城国で、日野有範(ひのありのり)の子として誕生しました。わずか9歳で得度(出家)し、比叡山延暦寺へ。
20年もの間、厳しい修行に身を投じますが、どうしても拭えない自らの煩悩に苦悩します。そんな中、比叡山を下りて六角堂(頂法寺)に100日間籠もるという決断を下しました。
2. 運命の出会いと波乱:法然上人との絆、そして流罪へ
六角堂での籠もりの末、聖人は吉水の地(現在の知恩院付近)で法然上人に出会います。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という師の教えに、ついに魂の安らぎを見出しました。
しかし、旧仏教勢力からの弾圧により、法然・親鸞父子は離れ離れに。聖人は佐渡(実際には越後)へと流罪になります。その後、赦免されてからは東国(関東)を中心に約20年にわたる布教活動を行い、民衆の中に浄土真宗の教えを広めていきました。
3. 晩年の帰郷:90歳の生涯を閉じた「善法坊」
60代半ばで京都に戻った聖人は、執筆活動に専念します。そして、弘長2年(1262年)、90歳という当時としては驚異的な長寿でその生涯を終えました。
最期の地となったのは、現在の本願寺伝道院付近(下京区)にあったとされる善法坊(ぜんぽうぼう)。最後まで質素な暮らしの中で、教えを説き続けたといいます。
4. 荼毘の地から廟堂へ:語り継がれる「大谷」の記憶
亡くなられた聖人は、東山の鳥辺山(とりべやま)で火葬され、現在の東山今熊野にある延仁寺付近で荼毘に付されました。
その後、遺骨は東山の大谷(現在の知恩院・円山公園の一帯)に納められ、小さな墓所が作られました。これこそが、のちの本願寺へと発展していく歴史の種となります。
5. 娘・覚信尼が守った絆:現在の「大谷廟堂」
聖人の墓所はやがて、末娘である**覚信尼(かくしんに)**によって整備されていきます。彼女が聖人の遺骨を安置するために建立した「大谷廟堂」は、門信徒たちの心の拠り所となりました。
現在、知恩院の山内にある**崇泰院(そうたいいん)**の境内には、当時の墓所跡を示す石碑がひっそりと佇んでおり、聖人の娘が父を想った歴史の温もりを今に伝えています。
編集後記:京都検定へのワンポイント
試験対策としては、以下のキーワードをセットで覚えておくと安心です。
- 弘長2年(1262年):親鸞聖人の入滅。
- 恵信尼(えしんに):聖人の妻。のちに越後から送られた手紙(恵信尼消息)は、聖人の前半生を知る貴重な史料となりました。
- 留守職(るすしき):大谷廟堂を管理する役職。これが代々受け継がれ、宗教団体としての「本願寺」へと組織化されていきました。
あわせて読みたい記事
おすすめの書籍
今回のブログ記事前後の関連記事
- 1. 比叡山延暦寺
- 2. 法然(法然上人)
- 3. 善法坊(ぜんぽうぼう)
- 4. 延仁寺
- 5. 大谷廟堂(おおたにびょうどう)