西陣の名の由来を訪ねて——「赤い入道」山名宗全が駆け抜けた京都#1139
京都を代表する伝統工芸の街「西陣」。その名のルーツが、室町時代の大乱・応仁の乱にあることをご存知でしょうか?今回は、西軍の総帥として知られ、その激しい気性から「赤入道」と恐れられた猛将・山名宗全(持豊)にスポットを当てます。ライバル細川勝元との対立から、今も地名に残る陣跡の歴史まで、京都の街歩きがもっと楽しくなるエピソードをまとめました。
- 第1問:山名宗全の本名(諱)は何といいますか?
- 第2問:その血色の良い顔立ちと激しい気性から、宗全は周囲から何と呼ばれていましたか?
- 第3問:応仁・文明の乱において、山名宗全率いる「西軍」に対して、「東軍」の総帥を務めた人物は誰ですか?
- 第4問:山名宗全が現在の京都市上京区付近に本陣を置いたことが名前の由来となった、京都を代表する伝統産業の街は何ですか?
- 第5問:山名宗全は応仁・文明の乱の終結を見届けることなく、どこで没しましたか?
☆回答は記事の最後にあります。
京都の北西部、伝統的な織物の音が響く街・「西陣」。実はこの地名、ある一人の武将が築いた「西の陣」が由来であることをご存知でしょうか。
今回は、応仁の乱の主役の一人であり、情熱的で破天荒なカリスマ、**山名宗全(やまな そうぜん)**ゆかりの地とその足跡を辿ります。
1. 山名宗全(持豊)とは?——「赤入道」と呼ばれた猛将
山名宗全(本名:持豊)は、室町時代中期の守護大名です。当時の日本で「六分の一殿」と称されるほど巨大な勢力を誇った山名家の当主でした。
- 異名「赤入道」: 非常に血色が良い顔をしていたこと、そして一度怒り出すと手がつけられない激しい気性から、人々は畏敬の念を込めて彼を**「赤入道」**と呼びました。
- 出家と改名: 40代で家督を譲り出家。ここで「宗全」と名乗りますが、隠居後もその影響力は衰えるどころか、幕府を動かすフィクサーとして君臨し続けました。
2. 宿命の対決:細川勝元との「応仁の乱」
宗全の人生を語る上で避けて通れないのが、東軍の総帥・細川勝元との対立です。
実は二人は義理の親子(勝元の妻は宗全の養女)という近い関係でした。しかし、将軍家の世継ぎ争いや有力大名の家督争いが絡み合い、二人の関係は修復不可能に。ついに1467年、京都を舞台に11年にも及ぶ未曾有の大乱**「応仁・文明の乱」**が勃発します。
3. 今に息づく「西陣」の地名と宗全の終焉
現在、私たちが呼んでいる「西陣」という地名は、まさに宗全がこの地に**本陣(西の陣)**を置いたことに由来します。
- 西陣の始まり: 堀川よりも西側に陣を張った宗全の軍勢。戦乱が収まった後、職人たちがこの地に集まり、織物業を再開したことから「西陣織」のブランドが誕生しました。
- 陣中での最期: 戦いが泥沼化する中、宗全は決着を見ることなく1473年、西の陣にてその生涯を閉じました。そのわずか2ヶ月後には、ライバルの細川勝元も後を追うように病死しています。
4. 宗全を偲ぶスポット:山名宗全邸跡(山名宗全町)
上京区の「山名宗全町」には、今も**「山名宗全邸宅跡」**の石碑がひっそりと佇んでいます。
かつてここには、数千、数万の兵が集結し、時代の転換点となる熱気が渦巻いていました。今は静かな住宅街ですが、石碑の前に立つと、赤ら顔で野心を燃やした宗全の息遣いが聞こえてくるようです。
ちょっと寄り道: 西陣エリアを散策する際は、ぜひ足元の町名看板に注目してみてください。「宗全町」の名に、戦国時代の幕を開けた男の記憶が刻まれています。
編集後記
応仁の乱は「京都を焼き尽くした悲劇」として語られがちですが、その混乱の中から新しい文化や「西陣」という伝統が生まれたのも事実です。次に西陣の路地を歩くときは、ぜひ山名宗全というエネルギッシュな武将に思いを馳せてみてください。

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- 第1問:持豊(もちとよ)
- 第2問:赤入道(あかにゅうどう)
- 第3問:細川勝元(ほそかわ かつもと)
- 第4問:西陣(にしじん)
- 第5問:陣中(自邸・西の陣)


