「義経の盾」となった男——佐藤継信、京から屋島へ続く忠義の足跡#1137
京都の華やかな歴史の影には、主君を命がけで守り抜いた武士たちの熱い絆がありました。奥州・平泉から源義経に供し、最期は「義経の盾」となって屋島に散った忠臣・佐藤継信。義経が涙したというその最期と、二人の絆を象徴する愛馬「太夫黒」のエピソードを紐解きます。
- 佐藤継信に源義経の家臣となるよう命じた、奥州藤原氏の第3代当主は誰?
- 佐藤継信が弟の忠信とともに、義経と合流するために出発した地(現在の岩手県)はどこ?
- 佐藤継信が、平教経の放った矢から義経を守るために身代わりとなって戦死した戦いは何?
- 継信の死を深く悲しんだ義経が、供養のために僧侶へ贈った自らの愛馬の名前は何?
- 継信の弟で、後に吉野山で義経の身代わりとなって戦った人物は誰?
☆回答は記事の最後にあります。
奥州・平泉から義経のもとへ:佐藤継信の旅立ち
平安時代末期、奥州(現在の岩手県)で絶大な勢力を誇った奥州藤原氏。その当主、**藤原秀衡(ふじわらのひでひら)**に仕えていたのが佐藤継信・忠信兄弟でした。
1180年、源頼朝が挙兵したことを知った源義経が、奥州から兄のもとへ駆けつけようとした際、秀衡が「義経を守れ」と命じて付けたのがこの兄弟です。継信は兄として、義経が最も苦しい時期からその傍らを片時も離れず、戦場を駆け抜けることになります。
京都での日々:義経の最側近として
平家を都から追い出し、義経が京都に滞在していた時期、継信はその**第一の郎党(家来)**として重用されました。
京都検定などの歴史探訪で注目したいのは、彼らが単なる兵士ではなく、義経の意志を体現する「盾」であったことです。京都の寺社巡りの中で義経の足跡を辿ると、必ずその影には継信の姿がありました。彼は義経の軍略を支え、京都の治安維持や平家追討の準備に奔走したのです。
「身代わり」となった最期:屋島の戦い
継信の名を歴史に刻んだのは、1185年、香川県での「屋島の戦い」でした。 平家の猛将・平教経(たいらののりつね)が放った強力な矢が、大将である義経を狙います。その瞬間、継信は自ら馬を走らせ、義経の前に立ちはだかりました。
矢は継信の体を射抜き、彼は落馬します。義経は瀕死の継信を抱きかかえ、涙ながらに「思い残すことはないか」と問いかけました。継信は「主君が世に立ち、名を揚げることを見ることこそが、私の本望。戦場で命を落とすのは武士の常です」と言い残し、息を引き取ったと伝えられています。
義経が捧げた愛馬「太夫黒」
継信の死を深く悲しんだ義経は、自分の大切な愛馬である**「太夫黒(たゆうぐろ)」**を、継信を弔ってくれた僧侶へ供養の品として贈りました。
当時の武士にとって、名馬は自らの命と同じくらい価値があるもの。それを迷わず差し出したというエピソードは、義経がいかに継信を信頼し、その死を惜しんでいたかを物語っています。
結び:歴史を歩く楽しみ
京都の町や、各地の源平ゆかりの地を歩くとき、中心人物である「義経」だけでなく、彼を支えた「佐藤継信」のような人物に光を当ててみると、景色はより深く見えてきます。
「誰かのために命をかける」という彼の生き様は、時代を超えて現代の私たちの心にも、静かな感動を与えてくれます。
【備忘録メモ:京都検定・歴史学習のポイント】
- 藤原秀衡:奥州藤原氏の3代目。義経を庇護した人物。
- 佐藤忠信:継信の弟。後に吉野山で義経の身代わりとなる、こちらも忠義の士。
- 屋島の戦い:継信が戦死した舞台。那須与一の扇の的でも有名。

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