伝統を「進化」させた挑戦者:西陣織の救世主・佐倉常七の物語#1136

京都を代表する伝統工芸「西陣織」。しかし明治時代、その存続を揺るがす大きな危機があったことをご存知でしょうか?今回の記事では、西陣織の近代化を成し遂げた救世主・佐倉常七に注目。フランス・リヨンへの命がけの留学から、革新的な「ジャカード機」の導入まで、現代に続く西陣の美しさを支えた一人の機業家の情熱的な足跡を辿ります。

この記事内容から抜粋した練習問題10問☆
  1. 明治初期、西陣織の近代化のために技術留学として派遣されたフランスの都市はどこか。
  2. 佐倉常七とともにフランスへ渡った、井上伊兵衛、あともう一人の人物は誰か。
  3. 佐倉常七らがフランスから持ち帰り、西陣織の生産効率を劇的に向上させた紋織機の名称は何か。
  4. 佐倉常七が自ら設立し、精巧な美術織物を次々と発表した組織(機業場)の名称は何か。
  5. 佐倉常七ら「西陣織三功労者」の顕彰碑が建てられている、上京区にある神社はどこか。

☆回答は記事の最後にあります。

京都の歴史を歩いていると必ず耳にする「西陣」という言葉。その美しさを支える技術が、実は明治時代の一大プロジェクトによって守られたことをご存知でしょうか?

今回は、倒産の危機にあった西陣織を救い、現代へとつなげた機業家・佐倉常七にスポットを当ててご紹介します。


1. 西陣の危機を救った「欧州派遣」

明治初期、東京遷都によって京都の活気は失われ、西陣織もまた、需要の激減と技術の停滞という大きな壁にぶち当たっていました。

そんな中、京都府の命を受け、最新の織物技術を学ぶためにフランスのリヨンへと渡ったのが、佐倉常七井上伊兵衛吉田忠七の3人でした。彼らの使命は、日本の伝統技術に「西洋の革新」を融合させること。まさに命がけの技術留学でした。

2. 革命をもたらした「ジャカード機」の導入

フランスから帰国した彼らが持ち帰ったもの。それこそが、その後の西陣織の運命を劇的に変える**「ジャカード機」**でした。

  • 効率の向上: それまでは「空引機(たかびき)」という巨大な織機で、二人がかりで複雑な模様を織っていましたが、ジャカード機の導入により一人でスピーディーに織ることが可能になりました。
  • デザインの精密化: 穴の開いたカード(紋紙)によって模様を制御する仕組みは、西陣織に無限の表現力をもたらしました。

佐倉常七はこの技術を独り占めせず、西陣の地に広めることに尽力しました。これが「技術の西陣」としての基盤となったのです。

3. 「佐倉常七」という人物の魅力

佐倉常七は単なる技術者ではありませんでした。彼は自ら**「佐倉機業場」**を設立し、ジャカード織による精巧な美術織物を次々と発表。

  • 博覧会での活躍: 国内外の博覧会で多くの賞を受賞し、西陣織の名を世界に知らしめました。
  • 後進の育成: 自身の技術を惜しみなく教え、西陣全体のボトムアップを図ったその姿勢は、今も多くの職人たちから尊敬を集めています。

4. 西陣を歩く楽しみ:記念碑を訪ねて

京都・西陣のエリアを散策すると、彼の功績を称える足跡に出会うことができます。

特に上京区の**「櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)」**には、佐倉常七ら3人の功績を記念した「西陣聖天」の碑や顕彰碑が建てられています。彼らが海を渡り、どんな思いでリヨンの空を見上げたのか……そんな想像を膨らませながら歩くと、いつもの京都が少し違って見えてくるはずです。


まとめ

西陣織が今もなお「最高級の絹織物」として愛されているのは、佐倉常七という一人の機業家が持っていた**「伝統を守るために、自らを変える」**という勇気のおかげかもしれません。

京都検定の勉強をしていると、こうした「情熱を持った先人」に出会えるのが一番の醍醐味ですね。

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ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳を運営しています。
京都市出身、現在は東京都江東区に住まい、妻と一緒に小学生&保育園の二人の子育て中。両親の介護で京都との二拠点生活です。
「野菜作りを楽しむ」をコンセプトにした家庭菜園や農体験の運営を仕事として10年やってきました。今は独立して様々な情報発信などのお仕事と、不動産の管理などをしています。

前述の練習問題の解答☆
  1. リヨン
  2. 吉田忠七(よしだ ちゅうしち)
  3. ジャカード機(ジャカール機)
  4. 佐倉機業場
  5. 櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)

Posted by ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳