歴史の闇に葬られた「不運の血脈」:井上内親王と他戸親王の最期#1126
奈良時代末期、高貴な血筋を誇りながらも、突如として表舞台から消え去った皇太子がいました。その名は他戸(おさべ)親王。父・光仁天皇の即位によって約束されたはずの輝かしい未来は、母・井上内親王による「呪詛(じゅそ)」の疑いという、あまりにも衝撃的な事件によって一変します。
- 称徳天皇の崩御後、62歳という高齢で即位した、他戸親王の父にあたる天皇は誰か。
- 他戸親王の母であり、聖武天皇の娘として高い血統を誇った人物は誰か。
- 宝亀3年(772年)、他戸親王が皇太子を廃される直接の原因となった、母にかけられた疑いは何か。
- 他戸親王が廃太子となった後に皇太子となり、後に平安京へと遷都した天皇は誰か。
- 非業の死を遂げた他戸親王や母の怨霊を鎮めるために祀られた、京都にある「八所御霊」を祀る神社の代表的な名称を一つ挙げよ。
☆回答は記事の最後にあります。
今回は、平安京へと繋がる歴史の転換点となった、ある親子の悲劇と、今も都に残る怨霊信仰のルーツに迫ります。
光仁天皇と他戸親王:呪いと政争に翻弄された親子の悲劇
奈良時代末期、平城京から長岡京へと時代が移り変わる狭間で、歴史の表舞台から突然姿を消した親子がいました。第49代・光仁(こうにん)天皇と、その息子である他戸(おさべ)親王です。
1. 異例の即位、光仁天皇の誕生
光仁天皇は、もともと「白壁王(しらかべおう)」と呼ばれ、政治の表舞台とは距離を置いていた人物でした。しかし、称徳天皇の崩御後、62歳という当時としては異例の高齢で即位します。
その正妃(妻)となったのが、聖武天皇の娘である井上(いがみ)内親王です。二人の間に生まれたのが、高貴な血を引くサラブレッド、他戸親王でした。
2. 絶頂からの転落:宝亀3年の呪詛事件
他戸親王は、父の即位とともに将来の天皇として約束された「皇太子」の座に就きます。しかし、その幸せは長くは続きませんでした。
宝亀3年(772)、運命を狂わせる事件が起きます。 母である井上内親王が、夫である光仁天皇を**「呪詛(じゅそ)」**したという疑いをかけられたのです。
- 皇太子の廃位: この罪に連座する形で、他戸親王も皇太子の地位を奪われてしまいます。
- 幽閉と非業の死: 親子は共に大和国(現在の奈良県)に幽閉され、その翌年に奇しくも同じ日に亡くなったと伝えられています。
3. 歴史の裏に隠された「藤原氏の思惑」
この突然の転落劇には、当時の政権争いが深く関わっていたという説が有力です。 他戸親王を排除することで、次に皇太子となったのが**山部親王(のちの桓武天皇)**でした。
この政変を画策したのは、藤原百川(ももかわ)ら藤原式家(しきけ)の面々だと言われています。他戸親王の血筋(聖武天皇系)を絶ち、自分たちが推す勢力にすげ替えるための陰謀だったのかもしれません。
4. 怨霊となった親子を祀る場所
この親子の死後、都では疫病や天変地異が相次ぎました。人々はこれを「井上内親王と他戸親王の祟り」と恐れ、彼らを神として祀るようになります。
京都においても、彼らは**「御霊(ごりょう)信仰」の対象となり、上御霊神社や下御霊神社**の八所御霊の一柱として、今も静かに都を守り続けています。

編集後記:京都検定へのワンポイント
京都検定の対策としては、**「宝亀3年(772)」という年号と、「井上内親王の呪詛」**がキーワードになります。また、この事件がきっかけで桓武天皇の即位(長岡京・平安京への遷都)へと繋がっていく流れを意識すると、歴史の点と線が繋がっておもしろくなりますよ。

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- 上御霊神社(または下御霊神社)


