「姫宗和」と呼ばれた美学。金閣寺の茶室を手掛けた金森宗和とは?#1123

飛騨高山藩の跡継ぎというエリートの身分を捨て、自らの美学を貫いた茶人・金森宗和。「大坂夏の陣」での戦闘拒否、大徳寺での修行、そして「姫宗和」と称された優雅な茶風。金閣寺の茶室「夕佳亭」を手掛けるなど、京都の文化に深く関わった彼の波乱万丈な生涯と、現代にも通じる洗練された美意識を紐解きます。

この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
  1. 問: 金森宗和の父であり、飛騨高山藩主であった人物は誰ですか?
  2. 問: 宗和が家督相続権を失う(廃嫡される)きっかけとなった、1615年に起きた戦いは何ですか?
  3. 問: 宗和が京都で禅の修行に励み、茶道に打ち込む場となった寺院はどこですか?
  4. 問: 宗和の茶風は、その優雅で洗練された特徴から何と呼ばれましたか?
  5. 問: 宗和が設計に携わった、金閣寺(鹿苑寺)にある有名な茶室の名前は何ですか?

☆回答は記事の最後にあります。

はじめに:飛騨から京都へ。数奇な運命を辿った茶人

京都の歴史や文化を学んでいると、必ず出会う名前があります。それが茶人・**金森宗和(かなもりそうわ)**です。

彼は飛騨高山藩の世継ぎというエリートの身分にありながら、自らの信念を貫くためにその座を捨て、京都で「美」の世界に生きた人物でした。今回は、洗練された「雅(みやび)」を追求した彼の生涯を紐解きます。

戦を拒み、己の道を貫いた若き日

金森宗和は、飛騨高山藩主である金森可重(よししげ)の長男として生まれました。本来ならば藩を継ぐべき立場でしたが、彼の人生を大きく変えたのが**「大坂夏の陣」**です。

出陣を命じられた宗和ですが、なんと**「戦闘を拒否」**するという驚くべき行動に出ます。父との意見の相違や、平和を愛する自身の信条があったのでしょう。彼は結果として廃嫡(家督相続権を失うこと)となり、飛騨を離れて京都へと向かいました。

大徳寺での修行と茶の道への没入

京都へ出た宗和は、名刹・大徳寺に入ります。そこで禅の修行に励みながら、本格的に茶道の世界へと打ち込んでいくことになります。

武士としての道を絶たれた彼にとって、茶の湯は単なる趣味ではなく、自己を表現する唯一の手段だったのかもしれません。彼はそれまでの武骨な「武家茶」とは一線を画す、独自のスタイルを築き上げていきました。

「姫宗和」と称された優美な美意識

宗和の茶風は、非常に優雅で洗練されていたことから**「姫宗和(ひめそうわ)」**と称されました。

その高いデザインセンスは当時の公家たちにも愛され、後水尾天皇をはじめとする宮廷文化に深く浸透していきます。彼のプロデュース能力は多岐にわたり、伝説的な陶工・野々村仁清を見出したのも宗和だと言われています。

今も残る名建築:金閣寺の「夕佳亭」

彼の美学を今に伝える代表的な仕事の一つが、鹿苑寺(金閣寺)にある茶室**「夕佳亭(せっかてい)」**です。

夕日に映える金閣を眺めるのに最も適した場所に建てられたこの茶室は、南天の床柱(なんてんのときばしら)など、遊び心と繊細な美意識が詰まっています。豪華絢爛な金閣のそばで、宗和が演出した「詫び」と「雅」が融合した空間は、今も訪れる人々を魅了し続けています。

おわりに

戦うことをやめ、茶碗の中に平和と美しさを見出した金森宗和。 彼の「自分らしく生きる」という強い意志と、それを形にした優美な作品群は、現代を生きる私たちにも大切なことを教えてくれている気がします。

京都を訪れた際は、ぜひ彼の愛した景色を探してみてください。

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ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳を運営しています。
京都市出身、現在は東京都江東区に住まい、妻と一緒に小学生&保育園の二人の子育て中。両親の介護で京都との二拠点生活です。
「野菜作りを楽しむ」をコンセプトにした家庭菜園や農体験の運営を仕事として10年やってきました。今は独立して様々な情報発信などのお仕事と、不動産の管理などをしています。

前述の練習問題の解答☆
  1. 答: 金森可重(かなもり よししげ)
  2. 答: 大坂夏の陣
  3. 答: 大徳寺
  4. 答: 姫宗和(ひめそうわ)
  5. 答: 夕佳亭(せっかてい)

Posted by ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳