京都を水運で変えた男、角倉了以。豪商の枠を超えた「川の開拓者」の物語#1121
京都の美しい水辺、保津川や高瀬川。その風景の裏には、江戸時代初期に私財を投じて川を切り拓いた一人の豪商の情熱がありました。その名は、角倉了以。
- 角倉了以のもともとの姓は何というでしょうか?
- 嵯峨の大覚寺門前で、現在の銀行や質屋のような役割であるどのような業種を営んでいましたか?
- 角倉家は、茶屋家・後藤家と並び、京都の何と称されていましたか?
- 慶長11年(1606年)、丹波からの物資輸送のために了以が切り拓き、現在の「保津川下り」のルーツとなった川は何でしょうか?
- 本阿弥光悦と親交が深く、豪華な装丁の「光悦本(嵯峨本)」の出版にも尽力した、了以の息子の名前は何でしょうか?
☆回答は記事の最後にあります。
「京の三大富豪」の一人でありながら、エンジニアとしても超一流だった彼の足跡と、息子・素庵が築いた華やかな文化交流の物語をご紹介します。
はじめに:京都の川にこの人あり!「角倉了以」とは?
京都の街を歩いていると、嵐山の保津川や、街中を流れる高瀬川など、美しい水辺の風景に出会います。これらの風景の土台を作ったのが、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した豪商、角倉了以(すみのくら・りょうい)です。
茶屋家、後藤家と並び「京の三大富豪」の一人に数えられる彼は、単なる商人ではなく、京都の物流を劇的に変えたエンジニアのような側面も持っていました。
出身は「土倉」を営む吉田家。嵯峨を拠点とした実業家
もともとの名字は「吉田」といい、嵯峨の大覚寺門前で「土倉(どそう)」(現在の銀行や質屋のような業種)を営んでいました。その後、屋号から「角倉」を名乗るようになります。 代々続く医者の家系でもあり、知的なバックグラウンドを持ちながら、海外との朱印船貿易にも携わるなど、非常に広い視野を持った人物でした。
難工事を成し遂げた「保津川」と「高瀬川」の開削
了以の最大の功績は、それまで困難とされていた河川の開削(かいさく)です。
慶長11年(1606):大堰川(保津川)の開削 丹波からの物資を運ぶため、巨石が連なる険しい保津峡を切り拓き、船が通れるようにしました。これが現在の「保津川下り」のルーツとなっています。
慶長15年(1610):方広寺再建への貢献 豊臣秀頼による方広寺大仏殿の建立に際し、賀茂川を使って大量の資材を搬入。その手腕をいかんなく発揮しました。
高瀬川運河の完成 京都の物流のメインストリートとなる高瀬川を開削。物流の拠点を築くことで、京都の経済をさらに活性化させました。

息子・素庵と共に築いた「角倉家」の黄金時代
了以の情熱は、息子の素庵(そあん)にも受け継がれました。 素庵は、父と共に高瀬川の開削を支えただけでなく、大坂冬の陣では徳川幕府のために糧食の運搬を担うなど、政治的・軍事的にも重要な役割を果たしました。
また、素庵は文化的な功績も大きく、あの本阿弥光悦と深く親交していました。光悦が手がけた豪華な装丁の本「光悦本(嵯峨本)」の出版にも尽力するなど、京都の文化振興にも多大な影響を与えたのです。
まとめ:現在の京都に息づく了以の情熱
私たちが今、嵐山で屋形船を楽しんだり、木屋町のせせらぎを眺めたりできるのは、400年以上前に私財を投じて川を拓いた角倉了以の情熱があったからこそ。
「商い」を通じて社会を豊かにしようとした彼の精神は、今も京都の街のいたるところに息づいています。

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