【京都・寛永文化の粋】名妓・吉野太夫を愛した稀代の文化人、灰屋紹益の物語#1120

京都の豪商でありながら、当代随一の文化人として名を馳せた灰屋紹益。天皇や公家とも交流した彼が、すべてを投げ打って愛したのは、伝説の名妓・吉野太夫でした。莫大な富と芸術的才能、そして愛に生きたそのドラマチックな生涯を、彼が遺した哀切な和歌とともに紐解きます。

この記事内容から抜粋した練習問題5問☆

問1:灰屋紹益の本姓は佐野ですが、実父は本阿弥光悦の息子である誰とされていますか?

問2:灰屋紹益が営み、莫大な富を築いた「紺灰(こんぱい)」の問屋とは、主にどのような用途に使われる灰を扱っていましたか?

問3:寛永8年(1631年)、紹益が周囲の反対を押し切って身請けし、妻とした島原の名妓は誰ですか?

問4:紹益が俳諧を師事した、江戸時代初期を代表する歌人・俳人は誰ですか?

問5:妻の死を悼んで詠んだ歌「都をば 花なき里と なりしけり 〇〇を死出の山にうつして」の、〇〇に入る言葉は何ですか?

☆回答は記事の最後にあります。

京都の歴史を紐解くと、驚くほど多才で、そして情熱的な「遊び人(最高の意味での文化人)」に出会うことがあります。今回は、江戸初期の京都で、莫大な富を築きながら、芸術と恋に生きた**灰屋紹益(はいやじょうえき)**についてご紹介します。

1. 出自と背景:芸術のサラブレッドとして

灰屋紹益(本姓は佐野)は、慶長12年(1607年)に生まれました。彼は、あの有名な本阿弥光悦の孫(光益の子)として生まれ、後に紺灰問屋を営む豪商・佐野家の養子となりました。

光悦の血を引く彼は、幼い頃から一流の芸術に触れて育ちました。家業の「灰屋」として経済的な基盤を固める一方で、その才能は多方面に開花していきます。

2. 華麗なる交遊録:天皇から文化人まで

紹益の凄さは、その人脈の広さにあります。単なる商人ではなく、和歌や茶の湯、蹴鞠などに通じた超一流の文化人として、身分を超えた交流を広げました。

  • 本阿弥光悦: 祖父であり、芸術的な影響を受ける
  • 松永貞徳: 俳諧の師
  • 皇族・貴族: 後水尾天皇や智仁(としひと)親王といった、当時の最高権力者や文化のリーダーたちとも親交を結びました

3. 吉野太夫との「世紀の恋」

灰屋紹益を語る上で欠かせないのが、島原の名妓・吉野太夫とのロマンスです。 寛永8年(1631年)、紹益は周囲の反対を押し切り、当時絶世の美女であり才女と謳われた吉野太夫を多額の金で身請けし、妻として迎えました。

二人の仲睦まじさは有名でしたが、幸せな時間は長くは続きませんでした。寛永20年(1643年)、吉野太夫は38歳の若さでこの世を去ってしまいます。

4. 永遠の追慕:吉野を死出の山にうつして

愛する妻を失った紹益の悲しみは深く、彼は吉野の遺灰を酒に混ぜて飲み干したという伝説が残るほど彼女を惜しみました。

その際、彼が詠んだ歌は今も人々の心を打ちます。

「都をば 花なき里と なりしけり 吉野を死出の山にうつして」 (美しい吉野=妻が亡くなってしまったので、この都はもう花のない寂しい里になってしまった)

この歌からは、彼にとって吉野太夫がいかに人生の彩りそのものであったかが伝わってきます。


まとめ:京都の「粋」を体現した男

灰屋紹益の人生は、豊かな経済力と、それに負けない深い教養、そして一途な愛に溢れていました。

京都の鷹峯(常照寺)には、今も吉野太夫ゆかりの「吉野窓」や二人の墓所が残っています。歴史を学んだあとにその場所を訪れると、紹益が愛した「風流」がより身近に感じられるかもしれません。

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ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳を運営しています。
京都市出身、現在は東京都江東区に住まい、妻と一緒に小学生&保育園の二人の子育て中。両親の介護で京都との二拠点生活です。
「野菜作りを楽しむ」をコンセプトにした家庭菜園や農体験の運営を仕事として10年やってきました。今は独立して様々な情報発信などのお仕事と、不動産の管理などをしています。

前述の練習問題の解答☆

答1:本阿弥光益(ほんあみ こうえく)

答2:染物(染色)の媒染剤 (※「染物のため」といった内容であれば正解です)

答3:吉野太夫(よしのたゆう)

答4:松永貞徳(まつなが ていとく)

答5:吉野(よしの)

Posted by ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳