京都に刻まれた豊臣の記憶。秀吉・秀次・秀頼、三人の関白と「内野」の変遷#1117
京都の街に今も息づく豊臣家の記憶。かつて平安京の跡地「内野」に築かれた壮麗な城郭、聚楽第(じゅらくだい)を中心に、秀吉・秀次・秀頼ら三人の歩みと、現代に残る遺構の数々を整理しました。京都検定の備忘録として、また歴史散策のガイドとしてお役立てください。
- 天正13年に関白となった豊臣秀吉が、平安京の「内野」と呼ばれた跡地に築いた城郭風の邸宅を何といいますか。
- 秀吉が築いた聚楽第の周囲には、家臣のほかに誰の屋敷が配されていましたか。当時の有名な茶頭の名前を答えてください。
- 聚楽第の壮麗な様子を著書『日本史』の中で描写した、イエズス会の宣教師は誰ですか。
- 秀吉から関白の座と聚楽第を譲り受けながらも、後に謀反の容疑で粛清され、自害に追い込まれた人物は誰ですか。
- 聚楽第が破壊された後、その建物の遺構と伝えられている「西本願寺の飛雲閣」や「大徳寺の唐門」は、もともとどの城に移築されたものとされていますか。
☆回答は記事の最後にあります。
京都の街並みの中で、かつて「内野(うちの)」と呼ばれた場所をご存知でしょうか。平安京の心臓部であった大内裏が焼失し、荒廃していたその地に、再び巨大な光を当てたのが豊臣家でした。今回は、京都に深くゆかりのある豊臣家の三人と、彼らが築いた幻の城「聚楽第」についてまとめます。
1. 豊臣秀吉:京都改造の象徴「聚楽第」を築いた天下人
豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に関白に就任すると、京都の復興と権威の象徴として**聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)**を築きました。
- 場所と構造: 平安京の内裏跡地(内野)の東北部に建設。堀と石垣に囲まれ、壮麗な天守閣を構えた城郭風の邸宅でした。
- 周囲の様子: 秀吉の権力のもと、周囲には諸大名や臣下、さらには茶頭の千利休らの屋敷が整然と配されました。
- その豪華さ: イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも、著書『日本史』の中でその豪壮な様子を驚きをもって描写しています。
聚楽第は単なる砦ではなく、高い居住性を備えた「権威の象徴」としての建物でした。
2. 豊臣秀次:聚楽第を継ぎ、悲劇の最期を遂げた二代目関白
秀吉の甥であり、秀吉の後を継いで関白となったのが豊臣秀次です。
- 聚楽第の主として: 秀吉から関白の座とともに聚楽第を譲り受け、この地で政務を執りました。
- 粛清と破壊: しかし、秀吉に実子(のちの秀頼)が誕生したことで立場が激変。謀反の容疑をかけられ、高野山で自害に追い込まれます。
- 幻となった名建築: 秀次の死後、聚楽第は徹底的に破壊されました。建物の一部は伏見城へ移築され、現在は西本願寺の飛雲閣や大徳寺の唐門がその遺構として伝えられています。
3. 豊臣秀頼:豊臣の血脈と夏の陣に散った若き後継者
秀吉が晩年に授かった待望の実子が、豊臣秀頼です。
- 時代の転換点: 秀吉の死後、権力は徳川家康へと移っていきます。
- 大坂夏の陣: 京都を離れ、大坂城を拠点とした秀頼でしたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で徳川軍に敗北。母・淀殿とともに自刃し、豊臣宗家は滅亡しました。
京都の街には、今も秀頼が再興に尽力した寺社など、彼の手による痕跡がわずかに残されています。
4. 今、私たちが歩ける「聚楽第」の面影
かつて壮大な規模を誇った聚楽第は、現在の地図で見ると以下の範囲に位置していました。
- 南北: 下立売通(しもだちうりどおり)から元誓願寺通(もとせいがんじどおり)
- 東西: 堀川通から千本通
この範囲の中に、全長千間(約1.8km)にも及ぶ堀に囲まれた内郭が存在していました。現在は住宅街となっていますが、地形のわずかな高低差や、周辺に残る「如水町(黒田官兵衛の屋敷跡)」などの地名に、当時の熱気を感じることができます。
結びに代えて
豪華絢爛な文化を築いた秀吉、悲運の秀次、そして散りゆく運命を辿った秀頼。彼らが京都に残した足跡は、今の街並みの中にひっそりと、しかし確実に息づいています。京都検定の勉強をきっかけに、こうした「歴史のレイヤー」を意識して歩くと、いつもの風景がより深く、愛おしく感じられるかもしれませんね。
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