📖 皇統のドラマ:鎌倉〜室町時代の天皇と京都#1091
皇室が「持明院統」と「大覚寺統」に分裂し、激動の南北朝時代へと突入した鎌倉時代後期から室町時代。この時代の天皇・法皇は、政治の渦中で重要な役割を果たしました。北朝初代の天皇や元寇を経験した法皇、そして書道の大家を生んだ皇室のドラマを解説します。
この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
- 弘安4年(1281年)のモンゴル軍来襲(元寇)を在位中に経験した天皇は誰ですか。
- 持明院統の皇子であり、元弘の乱で廃位された後醍醐天皇に代わって即位し、後に北朝の初代天皇とされたのは誰ですか。
- 伏見天皇の第5皇子で、世尊寺流の書を学び、後に「御家流」の祖となり、『入木抄』を著した親王は誰ですか。
- 大覚寺統からの圧迫が厳しく、関東申次(もうしつぎ)の西園寺実兼の策謀により譲位させられた、持明院統の法皇は誰ですか。
- 御陵が京都の泉涌寺に葬られた天皇は誰ですか。
☆回答は記事の最後にあります。
この時代は、皇室が持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)に分裂し、両統迭立(りょうとうてつりつ)という不安定な状態が続きました。さらに、後醍醐天皇による建武の新政と、それに続く南北朝時代(吉野の南朝と京都の北朝)という激動期にあたります。
👑 鎌倉時代後期の天皇と法皇
この時期は、まだ朝廷が京都にあり、武家政権である鎌倉幕府の干渉を受けつつも、皇位継承を巡る対立が深まっていました。
- 後宇多法皇(ごうだほうおう)
- 亀山天皇の第二皇子として生まれ、8歳で即位。当初は父・亀山法皇による院政が敷かれていました。
- 在位中の最大の出来事は、弘安4年(1281年)のモンゴル軍(元寇)の来襲です。
- 伏見法皇(ふしみほうおう)
- 持明院統の皇統を担う中心人物。伏見天皇の第一皇子。
- 永仁6年(1298年)、父の譲位を受けて即位。
- しかし、大覚寺統からの圧迫は厳しく、関東申次(もうしつぎ)の西園寺実兼(さいおんじさねかね)の策謀により、正安3年(1301年)に譲位を余儀なくされました。
💥 南北朝時代(北朝)の天皇
後醍醐天皇による倒幕後の混乱を経て、足利尊氏が京都に擁立したのが「北朝」の天皇です。
- 光厳法皇(こうごんほうおう)
- 持明院統の後伏見法皇の第一皇子。
- 元弘の乱で倒幕に失敗した大覚寺統の後醍醐天皇が廃位されたことによって即位しました。
- 後に後醍醐天皇の帰京で廃位されますが、室町幕府を開いた足利尊氏に再び擁立され、上皇として15年間も院政を行いました。
- 北朝の初代天皇とされています。
- 後光厳天皇(ごこうごんてんのう)
- 北朝の天皇の一人です。
- 御陵(墓所)は、伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)にあります。
- 後小松天皇(ごこまつてんのう)
- 南北朝合一を果たした天皇です。
- 御陵は、伏見区深草北陵にあります。
📜 皇室に関するその他の人物と事柄
この時代の皇室に関連する特筆すべき事柄や人物です。
- 四条天皇(しじょうてんのう)
- 仁治3年(1242年)に崩御しました。
- 御陵は、泉涌寺(せんにゅうじ)に葬られました。
- 彼にまつわるエピソードとして、『増鏡』には、ある人が「前の世ではいかがなる人か」と尋ねた際、天皇が泉涌寺の開山名をはっきり答えたという話が残されています。

🖌️ 皇室が生んだ書道の大家:尊円親王
皇室から出た書道の大家で、後に日本の書道の主流となる流派を築きました。
- 尊円親王(そんえんしんのう)
- 伏見天皇の第5皇子で、諱(いみな)は尊彦(もりひこ)。延慶3年(1310年)に親王宣下を受けました。
- 京都の青蓮院(しょうれんいん)に入寺し、「十七世尊円入道親王」とも呼ばれます。
- 世尊寺行尹(ゆきさだ)に世尊寺流の書を学び、さらに小野道風(おののどうふう)の書にも影響を受けました。
- これらの研鑽を重ね、青蓮院流として一つの流派を大成しました。
- 父の伏見天皇から「書を伝えて家の流とせよ」と指示されたことから、後に御家流(おいえりゅう)と呼ばれるようになり、武家や庶民に広く愛用される書体となりました。
- 書道の理論書である**『入木抄』**(じゅぼくしょう)を著しました。「入木」は書道の異称です。
- 『入木抄』には、中国の書の名手王羲之(おうぎし)の墨痕が木に1センチも染み込んだという故事が記されています。
この時代は、皇室内の争いが武家や政治全体に大きな影響を与えました。

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前述の練習問題の解答☆
- 後宇多法皇(ごうだほうおう)
- 光厳法皇(こうごんほうおう)
- 尊円親王(そんえんしんのう)
- 伏見法皇(ふしみほうおう)
- 四条天皇(しじょうてんのう)


