🌸後醍醐天皇:鎌倉幕府を滅ぼし、歴史の転換点を作った波乱の生涯と京都への影響#1090
武家政権に挑み、隠岐への流罪から劇的な帰京を果たした後醍醐天皇。彼の波乱に満ちた生涯と、鎌倉幕府を倒した後の**「建武の新政」、そして京都の禅宗寺院に導入した五山十刹制度**の歴史をわかりやすく解説します。京都の深い歴史に興味がある方必見です。
- 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒す直前に、その計画が露見して流された先として知られる島はどこですか。
- 鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇が京都で開始した、天皇自らが政治を行うことを目指した政権を何と呼びますか。
- 後醍醐天皇が1333年(元弘3年)に、皇室の寺院を重視して五山の第一位とした、京都の臨済宗寺院を二つ挙げてください。
- 京都五山と鎌倉五山が区別されるようになったのは、何年(または、どの天皇の治世の年号)以降のことですか。
- 京都五山の第一位である天龍寺は、誰の冥福を祈るために足利尊氏が夢窓疎石の勧めで創建した禅寺ですか。
☆回答は記事の最後にあります。
この記事は、歴史好きはもちろん、京都の深い歴史に触れたい方や、京都検定を目指す方へのヒントにもなるよう、**後醍醐天皇(ごだいごてんのう)**の波乱に満ちた生涯と、彼が京都に残した重要な足跡について解説します。
🌊 隠岐配流と劇的な帰還:鎌倉幕府打倒への道
後醍醐天皇は、武家政権である鎌倉幕府を倒し、天皇による**親政(しんせい)**の実現を目指しました。この計画が露見し、**隠岐(おき)**へ流罪(るざい)となります。
しかし、天皇は諦めることなく隠岐を脱出。この行動をきっかけに、**足利尊氏(あしかがたかうじ)**をはじめとする有力な武将たちが次々と幕府から離反し、天皇側につきます。
- 1333年(元弘3年): 隠岐を脱出して帰京。足利尊氏らの協力によって鎌倉幕府を滅亡させ、京都にて自ら政務を執る親政(建武の新政)を開始しました。
🏯 京都の禅宗に刻まれた足跡:五山十刹制度の変遷
後醍醐天皇は、禅宗寺院の統制にも深く関わりました。特に、重要な寺院を格付けする**「五山(ござん)」「十刹(じっさつ)」**の制度の整備に着手しています。
禅宗寺院の格付けは、もともと鎌倉幕府によって始められていました。
- 日本の五山制度の始まり: 1299年(正安元年)、北条貞時が鎌倉の**浄智寺(じょうちじ)**を五山に列したのが最初です。その後、建長寺(けんちょうじ)、円覚寺(えんがくじ)、**寿福寺(じゅふくじ)が続き、京都の建仁寺(けんにんじ)**も五山に列せられていました。
後醍醐天皇による格付けの変革
鎌倉幕府を倒した後の1333年(元弘3年)、後醍醐天皇は、皇室が創建した寺院を重視し、新たな五山の格付けを定めました。
- 皇室の威光を示す五山: 綸旨(りんじ:天皇の命令)を発し、**大徳寺(だいとくじ)と南禅寺(なんぜんじ)**を五山の第一位とする位置づけを行いました。
⚔️ 歴史の皮肉:足利氏と天龍寺
後醍醐天皇の死後、彼を裏切って室町幕府を開いた足利尊氏によって、五山制度はさらに再編されます。
- 南禅寺は「五山の上」へ: 1386年(元中3年)、足利義満(あしかがよしみつ)の時代に最終的な五山制度が確立し、南禅寺は五山の中でも別格の**「五山の上」**に位置づけられました。
- 京都五山と鎌倉五山: この頃、京都五山と鎌倉五山が明確に区別されるようになりました。(区別は1380年(天授6年)以後)
- 五山第一位・天龍寺の建立: 京都五山の第一位に定められた**天龍寺(てんりゅうじ)は、実は足利尊氏が夢窓疎石(むそうそせき)**の勧めにより、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建した禅寺です。

🌟 まとめ
後醍醐天皇は、武家政権の時代に天皇親政を夢見て、隠岐への流罪、そして鎌倉幕府打倒という劇的な行動を起こしました。その後の混乱(南北朝時代)を経て、彼が再編した禅宗の寺院制度は、形を変えながらも後の京都五山として定着し、現在まで京都の文化や景観に大きな影響を与え続けています。

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- 隠岐(おき)
- 建武の新政(けんむのしんせい)
- 大徳寺(だいとくじ)・南禅寺(なんぜんじ)
- 1380年(天授6年)以降
- 後醍醐天皇


