⛩️ 白河天皇(上皇)の時代:最初の院政と鳥羽離宮 👑#1088

白河天皇(上皇)は、日本の政治体制を大きく変えた「院政」を最初に行った人物です。この記事では、43年間にわたる長期院政の実態、権力の象徴である鳥羽離宮の広大さ、そして武士登用のきっかけとなった北面武士の創設について解説します。京都の歴史の転換点となった、白河上皇の時代を深掘りしましょう。

この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
  1. 白河天皇が最初に行った、天皇に代わって上皇が政治を行う体制を何と呼びますか。
  2. 白河上皇が院政を開始するために、子の堀河天皇に譲位したのは西暦何年のことですか。(元号で答えてください)
  3. 白河上皇の院政は、堀河天皇のほかに、鳥羽天皇とあと一人の天皇を含めた三代にわたりました。その最後の天皇は誰ですか。
  4. 白河上皇が院政の拠点として平安京の南郊に造営した、広大な規模を誇る施設は何ですか。
  5. 院政を行う上皇の身辺警護のために、源氏や平氏といった有力な武士が登用されて御所の北面に控え、この役目を担った武士たちを何と呼びますか。

☆回答は記事の最後にあります。

この時代、朝廷の権力構造が大きく変化したことをご存知でしょうか。**白河天皇(上皇)**は、後の日本の政治体制に大きな影響を与えた「院政(いんせい)」を最初に開始した人物です。


🌟 白河天皇の基本情報

項目内容
天皇としての在位期間約15年間
血縁関係後三条天皇の皇子 (ユーザー提供テキストには「三条天皇の皇子」とありますが、正しくは後三条天皇です)
堀河天皇の父
院政の開始応徳3年(1086年)、8歳の堀河天皇に譲位して開始

院政:天皇の位を譲った**太上天皇(上皇・法皇)**が、天皇に代わって政治を行う体制のこと。


🏯 43年間にわたる長期の院政

白河上皇は、自らが譲位した後も、幼い天皇の後見として長く政治の実権を握り続けました。

  • 院政期間:堀河・鳥羽・崇徳(すとく)の三代の天皇の治世にわたり、実に43年間に及びました。
  • 「治天の君(ちてんのきみ)」: この院政の時代、上皇は天皇よりも上位の権力者として「天下を治める君」という意味の「治天の君」と呼ばれました。

🕊️ 巨大な権力の象徴:鳥羽離宮の造営

院政を行う上皇が活動の拠点としたのが、「後院(ごいん)」と呼ばれる施設です。白河上皇は、平安京の南郊に広大な**鳥羽離宮(とばのりきゅう)**を造営しました。

  • 広大な敷地: 従来の里内裏や院御所がせいぜい四町(約400m四方)程度であったのに対し、白河上皇の離宮は『扶桑略記(ふそうりゃっき)』に「九条以南の鳥羽山荘に新たに後院を建つ およそ百余町を卜す(ぼくす)」と記されるほどの広大さを誇りました。
  • 院御所としての機能: この鳥羽離宮が、院政期における六条院(六条内裏)と並び、実質的な院御所の機能を果たしました。

🛡️ 院の警備組織:北面武士の誕生

白河上皇が院政を開始し、権力を集中させるにつれて、上皇自身の身辺警護が重要になります。そこで組織されたのが「北面武士(ほくめんのぶし)」です。

  • 役割: 院政をする上皇を警固する役目。
  • 組織: 上皇のいる御所の**北面(北側の部屋)**に控え、警護にあたったことからこの名がつきました。
  • 登用された氏族: 従来の貴族の家司(けいし)などとは異なり、この警護役には後の武家政権の礎となる源氏(げんじ)や平氏(へいし)といった有力な武士団が初めて正式に登用されました。これは、武士の地位向上につながる大きな出来事でした。

白河上皇が確立した院政の仕組みは、その後の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、上皇が政治の実権を握る体制として長く続きました。京都の歴史を語る上で、外せない重要な転換点と言えるでしょう。

あわせて読みたい記事

おすすめの書籍

今回のブログ記事前後の関連記事

この記事を書いた人
本サイト運営者

ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳を運営しています。
京都市出身、現在は東京都江東区に住まい、妻と一緒に小学生&保育園の二人の子育て中。両親の介護で京都との二拠点生活です。
「野菜作りを楽しむ」をコンセプトにした家庭菜園や農体験の運営を仕事として10年やってきました。今は独立して様々な情報発信などのお仕事と、不動産の管理などをしています。

前述の練習問題の解答☆
  1. 院政(いんせい)
  2. 応徳3年(おうとくさんねん)
  3. 崇徳天皇(すとくてんのう)
  4. 鳥羽離宮(とばのりきゅう)
  5. 北面武士(ほくめんのぶし)

2026年1月6日

Posted by ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳