🎨 稀代のエンターテイナーにして権力者!「今様狂い」後白河天皇の生涯#1089
「今様狂い」として知られる稀代のエンターテイナーにして権力者、後白河天皇。在位わずか4年で、その後34年にもわたり五代の天皇に君臨した長期の院政の裏側を解説します。権力の中枢となった法住寺殿、平清盛が関わった三十三間堂など、波乱の時代に彼が遺した京都の史跡を巡りながら、その生涯に迫ります。
- 後白河天皇が在位を退いた後、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の五代の天皇にわたり行った、長期的な政治体制を何と呼びますか。
- 後白河上皇が院御所として創建し、その仏殿が三十三間堂として有名な施設名を答えなさい。
- 三十三間堂(蓮華王院)を後白河上皇に寄進した、当時の最大の権力者であった人物は誰ですか。
- 法住寺殿の鎮守として、熊野権現を勧請して創建された神社名を答えなさい。
- 奈良の興福寺を指す南都と、比叡山の延暦寺を指す北嶺という、朝廷をも威圧した二大寺社勢力の総称を何と呼びますか。
☆回答は記事の最後にあります。
✨ 歴代天皇の中でも異彩を放つ、後白河天皇(ごしらかわてんのう)。在位はわずか4年ながら、その後の院政(いんせい)は実に五代、34年間にも及び、波乱の時代に絶大な権力を振るいました。その生涯と、彼が深く関わった京都の地を巡ります。
🏛️ 34年にわたる長期の院政:天皇の座を降りてからの権力
後白河天皇は、在位(1155年~1158年)自体は短かったものの、上皇(太上天皇)となってからは、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代の天皇にわたり、34年という長期にわたって院政を行いました。
院政とは、天皇の位を譲った上皇が政治を行う体制のことで、彼はその生涯を通じて日本の中心的な権力者であり続けました。
🏡 法住寺殿と三十三間堂:権威の象徴
後白河上皇の権力の中枢となったのが、**法住寺殿(ほうじゅうじどの)**です。
- 法住寺殿の創建: 永暦2年(1161年)、鴨川の東南部、かつての法住寺の跡地に院御所(上皇の住まい)として建てられ、上皇はここに移り住みました。
- 蓮華王院(三十三間堂): 法住寺殿の敷地内に建てられた仏殿が、現在三十三間堂の通称で親しまれている蓮華王院(れんげおういん)です。この壮麗な仏殿は、当時の最大の権力者であった平清盛(たいらのきよもり)が寄進したものです。
- 鎮守の社: 法住寺殿の鎮守(守り神)として、熊野権現(くまのごんげん)と日吉山王(ひえさんのう)が勧請(かんじょう:神仏の分霊を招いて祀ること)されました。
- 熊野権現を勧請した社が、現在も残る新熊野神社(いまくまのじんじゃ)。
- 日吉山王を勧請した社が、現在も残る新日吉神宮(いまひよしじんぐう)。

⚔️ 動乱の時代:平家と寺社勢力との駆け引き
後白河上皇の院政期は、平清盛率いる平家が武士として初めて政権を握り、その後の源氏との争い(源平合戦)へと繋がる動乱の時代でした。
- 平家との関係: 上皇の近臣(側近)の中には、平家の権勢に恨みを抱く者も少なくありませんでした。
- 延暦寺討伐: 上皇は平清盛に延暦寺討伐の命を授けたことがあります。延暦寺の僧兵(そうへい)は比叡山から西坂本(現在の一乗寺や修学院のあたり)まで下りて開戦に備えますが、上皇の近臣による反平家計画(鹿ケ谷の陰謀)で一味徒党が逮捕されたという知らせを聞き、清盛と上皇の間に反目が生じたことを察して山へ戻っていきました。
🙏 強大な寺社勢力:「南都北嶺」の威圧
当時の朝廷にとって、武士だけでなく寺社勢力の力も非常に大きな脅威でした。これを「南都北嶺(なんとほくれい)」と呼びます。
- 南都(なんと): 奈良の**興福寺(こうふくじ)**を指します。
- 北嶺(ほくれい): 比叡山の**延暦寺(えんりゃくじ)**を指します。
これら二大寺院は、ともに多くの僧兵を抱え、時には朝廷をも威圧するほどの強大な勢力を持っていました。後白河上皇は、生涯を通じて彼らとも複雑な駆け引きを繰り広げることになります。

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