🐲遷都の光と影:桓武天皇と悲劇の皇太子、早良親王の物語#1086
都が奈良から京都へ移る過渡期、第50代桓武天皇は長岡京と平安京の二度の遷都を断行しました。その背景には、奈良仏教からの脱却という強い意志と、悲劇的な死を遂げた弟、早良親王(崇道天皇)の祟りと鎮魂の歴史が深く横たわっています。
- 桓武天皇が、奈良の仏教勢力の影響から脱却し、最初に遷都を敢行した場所は、山背国乙訓郡のどこですか。
- 長岡京の造営を推進したものの、暗殺事件で命を落とし、結果的に早良親王が連座することになった人物は誰ですか。
- 長岡京遷都後の暗殺事件に連座し、淡路島へ流される途中で憤死した早良親王は、後に桓武天皇によって何という称号を追贈されましたか。
- 桓武天皇の時代に、国名を「山背国」から改められた名称は何ですか。
- 早良親王(崇道天皇)の怨霊を鎮めるため、京都に創建された、怨霊を祀る神社(御霊神社)の信仰を何と呼びますか。
☆回答は記事の最後にあります。
新しい都づくりを巡る光と影、そして京都の御霊信仰の起源ともなった皇太子の物語を解説します。
💡はじめに:奈良仏教との決別と二度の遷都
第50代天皇である桓武天皇は、日本の都を大きく動かしたことで知られています。天皇の治世は、奈良の仏教勢力の影響から逃れるという強い意志のもとに始まりました。
- 延暦3年(784年):平城京(奈良)から山背国乙訓郡長岡郷へ長岡京への遷都を敢行。
- 延暦13年(794年): 長岡京から山背国葛野郡へ平安京への再遷都を敢行し、その際、国名を山城国に改めました。
桓武天皇は、長岡遷都の前年に京畿(都とその周辺)の定額寺(じょうがくじ)の新設や寺領の拡大を禁止する命令を出すなど、仏教勢力の影響を抑制しようと努めました。しかし、それでも寺院を抑圧できないと悟り、物理的に奈良から脱出する道を選んだのです。この二度の遷都は、新しい国づくりを目指す天皇の強い決意の表れでした。
⚔️長岡京での悲劇:藤原種継暗殺事件
最初の遷都地である長岡京の造営は、天皇の側近であった**藤原種継(ふじわらのたねつぐ)**が推進役となって進められました。しかし、遷都翌年の延暦4年(785年)、種継が何者かに暗殺されるという大事件が発生します。
この事件に連座したとして、桓武天皇の皇太弟(次の天皇となるべき弟)であった**早良親王(さわらしんのう)**が、悲劇的な運命を辿ることになります。
- 連座と幽閉: 早良親王は事件に関わったとされ、乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されました。
- 断食と憤死: 親王は無実を訴え、乙訓寺への幽閉時から断食を始めます。その状態で淡路島への流罪が言い渡されますが、流罪の途中で憤死しました。
早良親王の死後、皇太子には桓武天皇の皇子である安殿(あて)親王(後の平城天皇)が立てられました。
👻祟りと鎮魂:崇道天皇の誕生
早良親王の死後、桓武天皇の身辺には皇后や皇子の病死、都での凶事が次々と起こり始めました。人々はこれを、早良親王の祟りと恐れました。
親王の怒りを鎮め、平安な世を取り戻すため、桓武天皇は早良親王に追贈(亡くなった後に位や称号を贈ること)を行います。
- 延暦19年(800年): 早良親王は崇道(すどう)天皇の称号を贈られました。
- 神社の創建: その鎮魂のため、京都の**上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)や下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)などに御霊(ごりょう)**として祀られています。

御霊神社は、無念の死を遂げた人の怨霊を祀り鎮めるために建てられた神社であり、この御霊信仰は京都の歴史と深く結びついています。平安京への遷都の裏側には、このような悲劇と、それに対する深い畏れと鎮魂の歴史があったのです。

あわせて読みたい記事
おすすめの書籍

今回のブログ記事前後の関連記事
- 長岡京
- 藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
- 崇道天皇(すどうてんのう)
- 山城国(やましろのくに)
- 御霊信仰(ごりょうしんこう)


