🎬 映像文化の夜明け:京都ゆかりの映画人物に注目!#1070

京都が日本の映画発祥の地の一つであることをご存知ですか? 本記事では、日本の映像文化の夜明けを築いた2人の重要人物、実業家・稲畑勝太郎と、「日本映画の父」と呼ばれる監督・牧野省三に焦点を当てます。彼らが京都を舞台に果たした功績を知ることで、京都の街の新たな魅力を発見できるでしょう。

この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
  1. 稲畑勝太郎が京都府の留学生としてフランスのリヨンに渡り、ラ・マルティニエール工業学校で学んだ当時の最先端の技術は何ですか。
  2. 稲畑勝太郎が友人であるリュミエール兄弟から借り受け、明治30年(1897年)に京都や大阪で試写を成功させた映画装置の名称は何ですか。
  3. 稲畑勝太郎から映画事業の経営を引き継ぎ、後に映画会社横田商会を創業した人物は誰ですか。
  4. 牧野省三が京都の千本通りで経営し、活動拠点とした劇場名を漢字3文字で答えなさい。
  5. 牧野省三が明治42年(1909年)頃から多作し、時代劇映画の基礎を築いた作品で主演を務めた歌舞伎俳優の愛称は何ですか。

☆回答は記事の最後にあります。

京都から始まった日本の映画史。京都検定の知識としても、また文化の教養としても知っておきたい、初期の重要な人物2名をご紹介します。


💡 日本に「映画」をもたらした実業家:稲畑勝太郎

京都で生まれ、後に大阪財界でも活躍した稲畑勝太郎は、本業とは別の功績で日本の映像史に名を刻んでいます。

  • 京都からフランスへ: 中京区の菓子商の家に生まれ、京都府の留学生としてフランスへ渡ります。リヨンのラ・マルティニエール工業学校で、当時最先端だった染色技術を学びました。
  • リュミエール兄弟との繋がり: フランス留学中に、同校の友人であったリュミエール兄弟から、彼らが発明した映画装置「シネマトグラフ」一式を借り受けます。
  • 日本初の試写を成功: フランス人技師を同道させ、明治30年(1897年)に京都や大阪でシネマトグラフの試写会を成功させました。これが日本における映画の一般公開の先駆けの一つとされています。
  • 映画事業から横田商会へ: その後、新作映画の製作・上映事業も手掛けますが、最終的にその経営を横田永之助に譲渡。横田は後に映画会社横田商会を創業し、日本の映画産業発展の礎を築きました。

🎥 日本映画の礎を築いた監督:「日本映画の父」牧野省三

稲畑勝太郎から事業を受け継いだ横田商会と組み、日本独自の映画産業、特に「時代劇」の基礎を確立した人物が牧野省三です。

  • 京都の歴史ある出自: 山国隊隊長であった藤野斎(いつき)の子として生まれ、母方の姓である牧野を名乗りました。
  • 活動拠点「千本座」: 京都の千本通りに劇場「千本座」を経営し、そこを活動拠点としていました。
  • 横田商会との提携: 横田商会から映画製作の依頼を受け、後に横田商会の専属監督となります。初めて製作した作品は、史実を題材とした『本能寺合戦』でした。
  • 尾上松之助との黄金期:明治42年(1909年)頃から、歌舞伎俳優であった「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の主演映画を多作し、絶大な人気を博しました。
  • 時代劇映画の基礎確立: これらの作品を通じて、牧野省三は日本の「時代劇映画」の表現と製作の基礎を確立し、初期の日本映画界において極めて重要な役割を果たしました。

この2名の人物は、単なる歴史上の名前としてではなく、「京都」を起点に日本の映像文化をスタートさせた功労者として覚えておくと、さらに映画鑑賞が楽しくなりますね。

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この記事を書いた人
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ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳を運営しています。
京都市出身、現在は東京都江東区に住まい、妻と一緒に小学生&保育園の二人の子育て中。両親の介護で京都との二拠点生活です。
「野菜作りを楽しむ」をコンセプトにした家庭菜園や農体験の運営を仕事として10年やってきました。今は独立して様々な情報発信などのお仕事と、不動産の管理などをしています。

前述の練習問題の解答☆
  1. 染色技術
  2. シネマトグラフ
  3. 横田永之助
  4. 千本座
  5. 目玉の松ちゃん

Posted by ロスジェネ40代の、あれこれ記録帳