🏯 都の避難所:知られざる「里内裏」の魅力と歴史を深掘り#1065
雅で華やかなイメージの平安京。その都の歴史の裏側には、内裏の焼失という危機がありました。天皇は一体どこに避難し、どのように政務を続けたのでしょうか? 本記事では、知られざる都の避難所「里内裏」の起源と、円融天皇と藤原氏の複雑な関係が垣間見えるエピソードを深掘りします。
この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
- 貞元元年(976年)に内裏が焼失した際、円融天皇が仮の住まいとした太政大臣・関白であった人物の名前を答えなさい。
- 藤原兼通の屋敷であり、円融天皇が一時的に住んだ「堀河院」の創建者である太政大臣の名前を答えなさい。
- 本来、皇后や女御が住む実家を指す言葉で、「里内裏」という言葉の語源にもなった、宮中に対する呼び方を答えなさい。
- 円融天皇が堀河院に移ったことを、文学作品『栄花物語』では何と表現しているか答えなさい。
- 里内裏とは、本来の内裏が使用できないときに天皇が一時的に使用する仮の内裏を指しますが、その言葉が定着する背景には、天皇を支えるという貴族たちのどのような力関係が反映されていたか答えなさい。
☆回答は記事の最後にあります。
この記事では、京都の歴史の中で特異な役割を果たした「里内裏(さとだいり)」について解説します。平安京の雅な暮らしの裏側で、天皇や朝廷がどのように困難を乗り越えてきたのか、その知られざるドラマに触れてみましょう。
目次
🏘️ 里内裏とは? その起源と意味
「里内裏」という言葉は、本来、宮中(内裏:だいり)に対して、皇后や女御が住む実家を指す言葉「里(さと)」から来ています。
しかし、歴史の中でこの言葉が定着したのは、仮の御所としての役割を持つようになってからです。
- 「里」の意味:皇后や女御の実家(天皇の妃の実家)。
- 「里内裏」の定着:本来の内裏が使用できないときに、仮の天皇の住まいとなった場所。
🔥 転機となった大火と円融天皇の「行幸」
里内裏の歴史を語る上で欠かせないのが、内裏の度重なる焼失です。特に、里内裏という言葉が定着する大きなきっかけとなった出来事があります。
里内裏誕生の背景
- 事件:貞元元年(じょうげん)976年、内裏が焼失。
- 当事者:円融天皇(えんゆうてんのう)。
- 避難先:円融天皇は、太政大臣・関白であった**藤原兼通(かねみち)**の屋敷、**堀河院(ほりかわのいん)**に約1年間住まわれました。
堀河院の由緒
堀河院は、二条の南、堀川の東の南北2町を占める広大な屋敷でした。
- 創建者:太政大臣の藤原基経(もとつね)。
- 伝承:基経から忠平(ただひら)、師輔(もろすけ)を経て、兼通に伝えられました(堀河殿とも呼ばれました)。
- 異称:創建者の基経には「堀河太政大臣」、兼通には「堀河大臣」という異称がありました。
- 姻戚関係:円融天皇の母は師輔の娘であり、円融天皇の中宮(ちゅうぐう)は兼通の娘である媓子(こうし)でした。この外戚関係から、この避難先が選ばれたとも考えられます。
「行幸」に込められた意味
この円融天皇の堀河院への移動は、『栄花物語』では「行幸(ぎょうこう)」と表現されています。
- 行幸:本来、天皇が御所から外出することを指します。
- 解釈:仮の住まいであっても、そこが実質的な内裏であり、天皇の権威の場所であるという認識が、この表現に込められています。
📚 まとめ:都の裏側で支えた権力と里内裏の役割
里内裏は単なる「避難所」ではありませんでした。そこには、藤原氏など外戚が天皇を支えるという政治的な力関係が色濃く反映されています。
里内裏の存在は、平安京の都の構造の脆弱さと、それを補うための貴族たちの邸宅の重要性を示しているのです。

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前述の練習問題の解答☆
- 藤原兼通(ふじわらのかねみち)
- 藤原基経(ふじわらのもとつね)
- 里(さと)
- 行幸(ぎょうこう)
- 外戚関係(がいせきかんけい)


