🏯 鹿苑寺(金閣寺)の基本情報#987
京都検定の最重要スポットの一つ、「金閣寺(鹿苑寺)」の歴史と見どころを徹底解説!もとは足利義満の豪華な山荘「北山殿」であったこの寺院が、どのようにして世界遺産・特別名勝となったのか。
この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
- 鹿苑寺(金閣寺)は、何宗の何派に属する寺院ですか。
- 金閣寺の庭園は、国のどのような文化財に指定されていますか。(2つ)
- 金閣寺の前身である山荘を、西園寺公経から譲り受け、改築して「北山殿」とした人物は誰ですか。
- 金閣寺の主要な建物の一つである金閣は、正式には何という名前ですか。
- 金閣の二層と三層のそれぞれにかかっている額の文字と、それを揮毫した人物の組み合わせを、層ごとに答えてください。
☆回答は記事の最後にあります。
舎利殿(金閣)の扁額から、庭園の安民沢、茶室の夕佳亭まで、合格に必要な知識をまとめて復習できる備忘録です。

- 所在地と宗派:
- 京都市北区金閣寺町に位置します。
- 臨済宗相国寺派に属する寺院です。
- 庭園:
- 境内全体が特別史跡・特別名勝に指定されています。
✨ 金閣(舎利殿)について
- 名称:
- 正式には舎利殿といいます。三重殿閣という別名もあります。
- 立地:
- 鏡湖池(きょうこち)の北側に建てられています。
- 額の扁額:
- 二層にかかっている額は、足利義満筆の「潮音洞(ちょうおんどう)」です。
- 三層にかかっている額は、後小松天皇筆の「究竟頂(くっきょうちょう)」です。
- 鏡湖池と遺跡:
- 鏡湖池には葦原島(あしはらじま)など数多くの島が浮かんでいます。
- 池の北側にある安民沢(あんみんたく)と龍門滝(りゅうもんたき)は、この地がもと西園寺家の山荘であった頃の遺跡です。
📜 歴史:北山殿から鹿苑寺へ
- 前身:
- もとは鎌倉時代の公家、西園寺公経(きんつね)の山荘でした。
- 足利義満の時代:
- 応永4年(1397年)に足利義満が譲り受け、これを改築して豪華な山荘「北山殿」としました。
- 北山殿には、義満の「北御所」、夫人・日野康子の「南御所」、後円融天皇の母である崇賢門院(すうけんもんいん)の「三御所」などが設けられました。
- 応永15年(1408年)に義満が亡くなりました。
- 寺院化:
- 義満の死後、4代将軍の足利義持は北山殿に短期間住んだだけでした。
- 日野康子が亡くなると、北山殿は解体され、一部の建物は南禅寺や建仁寺に移築されました。
- 義持は義満の菩提を弔うため、北山殿を寺院として造営することを計画し、**応永29年(1422年)**に完成しました。
- このとき、義満の法名「鹿苑院」にちなんで鹿苑寺と名付けられました。
🏛️ 往時の伽藍と再興
- 主要な建物:
- 舎利殿である金閣の他、かつては仏殿、泉殿、書院などがありました。
- 天鏡閣:
- 北山殿時代に会所として使われた二階建ての建物です。
- 応永15年(1408年)に後小松天皇が行幸した際には、豪華に飾り立てられました。
- 戦国時代の荒廃と復興:
- 戦国時代に荒廃しましたが、宇喜多秀家が不動堂を再建したことをきっかけに復興が始まりました。
- 復興の先頭に立ったのは鳳林承章(ほうりんじょうしょう)らでした。
🍵 夕佳亭(ゆうかてい)
- 特徴:
- 安民沢の一段高いところに作られた茶室です。
- 金森宗和(かなもりそうわ)好みの、三畳の田舎風な造りとなっています。
- 命名:
- 鳳林承章が金森宗和に依頼して作らせ、命名したものです。

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前述の練習問題の解答☆
- 臨済宗相国寺派
- 特別史跡、特別名勝
- 足利義満
- 舎利殿(しゃりでん)
- 二層:「潮音洞」(足利義満)、三層:「究竟頂」(後小松天皇)


