京都の著名高校・大学の前身と変遷#941
京都検定受験を目指すあなたへ。著名な京都の高校・大学が、明治時代にどんな姿で、どこに誕生したかご存じですか? 鴨沂高校、府立医大、堀川高校など、各学校の創立期から現代に至るまでの興味深い前身と変遷を、受験対策の備忘録として分かりやすくまとめました。
この記事内容から抜粋した練習問題5問☆
- 鴨沂高等学校の前身である新英学校及女紅場が開設された、明治5年(1872年)当時の場所(上京区の旧家)の名称を答えなさい。
- 京都府立医科大学の前身である療病院において、診療と医学生教育に当たった、ドイツから招かれた医師の名前を答えなさい。
- 京都府立医科大学の前身である療病院碑の碑文を作成した、当時の京都府知事の名前を答えなさい。
- 朱雀高等学校の前身である京都府立第二高等女学校は、設立された明治37年(1904年)にどの区のどの通りに位置していましたか。
- 京都市立の高等学校であり、明治41年(1908年)に京都市立高等女学校として開設され、昭和23年に男女共学化して現在の校名になった学校名を答えなさい。
☆回答は記事の最後にあります。
目次
🏯 鴨沂高等学校(おうきこうとうがっこう)
前身と初期
- 明治5年(1872年):上京区の土手町通丸太町の旧九条家河原殿に**新英学校及女紅場(にょこうば)**として開設。
- 英女学校を経て、大正12年に京都府立第一高等学校となります。
現在の形へ
- 昭和23年:府立嵯峨野高等女学校と合併し、府立鴨沂高等学校となりました。
🏥 京都府立医科大学
黎明期
- 前身:粟田口療病院。
- 診療と医学生教育は、ドイツから招かれた医師のJ・ヨンケルが担当しました。
独立と発展
- 「療病院碑」の碑文は、当時の京都府知事・槇村正直によるものです。
- 明治13年(1880年):現在地に移転。
- 翌年(明治14年):療病院から医学教育機関の独立が計画され、京都府医学校として独立しました。
🏫 朱雀高等学校(すざくこうとうがっこう)
前身
- 明治37年(1904年):上京区土手町通丸太町に京都府立第二高等女学校として設立されました。
移転と改称
- 明治45年:中京区西ノ京式部町に移転。
- 昭和23年:朱雀高等学校となりました。
⚾️ 鳥羽高等学校(とばこうとうがっこう)
創立
- 前身:昭和10年(1935年)、京都府立京都第二中学校の中に夜間中学校として併設されました。
独立へ
- 一時期、朱雀高等学校の鳥羽分校であった時代があります。
- 昭和59年:府立鳥羽高等学校として独立しました。
🎼 堀川高等学校(ほりかわこうとうがっこう)
公立の女子校として
- 京都市立の高等学校です。
- 明治41年(1908年):京都市立高等女学校として開設されました。
現在の形へ
- 合併を繰り返した後、昭和23年(1948年)に男女共学の市立堀川高等学校となりました。

あわせて読みたい記事
おすすめの書籍
リンク

今回のブログ記事前後の関連記事
前述の練習問題の解答☆
- 旧九条家河原殿(きゅうくじょうけかわらどの)
- J・ヨンケル
- 槇村正直(まきむらまさなお)
- 上京区土手町通丸太町(かみぎょうくどてまちどおりまるたまち)
- 堀川高等学校(ほりかわこうとうがっこう)

