#769【介護日記#008】お母さんまだ頑張るからな

「お母さんまだがんばるからな」
2020年夏ごろ、6月から始まった仕事の出張を絡めた「車での」京都への帰省が慣れてきて、3週間に1回くらいのペースで両親の様子は確認できるようになりました。

3つのポイント☆

・コロナ禍で、おかげで良い思い出になった自宅での母の手料理
・帰省の事前連絡は父あてに
・帰り道、決まって涙が出てくる母の一言

同時に、年初に始めた地域包括センターの担当の方とのやり取りもゆるやかに続けていました。

20代30代の頃よりも、超高速での移動はけっこう体に堪えるもの。
若いころは極端な話早朝移動で日帰りで関西に行って帰ってくることもしていましたが、さすがに難しい。
ましてや新幹線ではなく車での移動は、高速道路を使っても7時間くらいは片道必要なんです。

そんなこともあり、京都では2泊。
3日間の予定で移動することが標準としていました。

聞いたことを正しく覚えて理解する、というのが母には難しくなってきていて(だんだん耳も遠くなってきていた)、僕が帰省の連絡をする先はもっぱらそれまで母で、
「〇日にそっちに帰る、ご飯は食べてくるから要らない」
という情報だけで、母は父にそのことを伝え、息子が帰ってくることをカレンダーに書いていたのですが、
「さっき電話もらったあんたが帰ってくるの〇日だったっけ?もうだんだん覚えられなくなって、、」
という聞き返しの連絡や、帰ってみたら「明日だと思ってた」という間違いがちらほら出てきていました。
この頃から、事前連絡は父の方にするようになっていました。

でも、無理をして車ででも京都に帰って実現できたこともありました。
家を出て、結婚して、30代の頃は仕事で帰省してももうお風呂に入って寝るだけ、せいぜい両親とご飯を食べるのは朝食くらい、という感じだったのですが、「コロナのおかげ」で当時は外食がNG。
まので、必然的に母が作る手料理(といっても昔から総菜を温めて盛り付けてるくらいでしたが)を夕飯で食べることになりました。

そういう意味では19歳で家を出て(大学の一人暮らし)20年ぶりくらい?
火を使って料理する母の手元もだんだん怪しくなってきていましたが、それでも、この時間がこのタイミングでとれたということは、誠に残念なことではありますが「よい思い出」になりました。

そして、帰省を終え家を出るときには母はこの頃決まって、
「じゃあまた帰ってきてな。仕事がんばりや。お母さんもまだがんばるからな」
と送り出してくれました。
この言葉が心に残り、「治ることはない」認知症。
いろんな思い出が駆け巡り、東京に戻る高速道路、新東名高速道路に入ってすぐに「長篠設楽原」というパーキングエリアがあるのですが、トイレ休憩を取るこのあたりで必ずと言っていいほど、頬を涙が伝うのでした。

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プリンを食べても太らない m3fブログを運営しています。
京都市出身、現在は東京都江東区に住まい、妻と一緒に小学生&保育園の二人の子育て中。両親の介護で京都との二拠点生活です。
「野菜作りを楽しむ」をコンセプトにした家庭菜園や農体験の運営を仕事として10年やってきました。今は独立して様々な情報発信などのお仕事と、不動産の管理などをしています。

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